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「そういや、昨日、サエと電話したんだけど、あいつ、温泉旅行、樹ちゃんと二人で行ったらしいんだわ。」
 本庁での重要会議からミルフィーユの執務室に戻るエレベーターの中で、黒羽がふと思い出したように言い。
「……そうなのか?じゃあ、例の女将さんは……?」
「彼氏と温泉旅行、だったんじゃねぇの?……サエってさ、昔からいつもどっか抜けてるんだよな。」
「星をマークさせたら佐伯の右に出る者はいないのにな。」
 くつくつとのどの奥で桔平が笑う。
 りんっ。
 小さな電子音とともに、エレベーターが26階に到着した。

「おかえりなさい!」
 会計事務所を装った執務室の扉を開くと、受付の森が明るく出迎える。
「今、お茶淹れますね。あ、そうだ!さっき、D&B関係の資料ができたって桜井が言ってましたよ!」

 ミルフィーユは警察庁が手に負えなくなった難解な事件を、あらゆる手段を講じて解決する特殊捜査班である。D&B事件は警察の威信を脅かす重大事件には違いないが、実際に大きな被害が出ているわけでもなく、これから被害が出る可能性も低い。自然と、どうしてもほかの重大事件の捜査が優先されることになる。だからこそ、この前も、土日を返上して六角海岸に赴くような羽目に陥ったわけで。そういう意味では、D&Bはミルフィーユにとっては重要度の低い事件ではあったが、二人にとっては大切な案件であった。
 六角海岸から戻って数日、二人は新たに入った凶悪事件の捜査に追われ、目が回るような忙しさの中にいた。しかし、それも先ほどの会議で一段落し、捜査の指揮権を本庁の跡部に委ねてきたところである。
 ようやく一息つける。
 そんなタイミングで、桜井から渡された資料は、二人の待ちかねていたものであった。

「六角カントリークラブ跡地は、運営会社の倒産後、××銀行に差し押さえを食らってました。」
「土地取得と倒産に関して、何か不正が行われていた形跡は?」
「いえ、不正はありませんでした。」

 桜井が二人のデスクに置いた資料は、小さなファイル一冊分。ぱらぱらとめくれば、桜井の几帳面な仕事ぶりがうかがえる。

「くだんの土地は完全に不良債権化していて、××銀行は一刻も早く処理したいようです。正式な決定ではないようですが、近々競売に掛けられて二束三文でどこかに売り渡されるという話があります。」
「二束三文にしたって……売れるのか?あんな山?」
「交通の便は良いですから、どうも郊外型の巨大ショッピングモールを造ろうという話はあるようです。でも、銀行や行政からどれほどの投資や資金援助が期待できるか……。まぁ、ある程度の目途が付けば、本格的に出来レースの競売計画が動き出す可能性がありますね。××銀行は千葉の地場産業に強い地銀ですから、地域のてこ入れになると思えば協力するでしょう。」

 桜井の話を聞いて、黒羽は天井を見上げた。ぱさり、と資料をデスクに戻して、桔平が黒羽の様子を見やる。
「……またあの山を壊すのかよ……。」
 うめくような黒羽の声。
 桔平は森の淹れた茶に手を伸ばした。見れば茶柱が立っている。しばらく思案した後、桔平は自分の湯飲みを黒羽の湯飲みと置き替えてみた。

「ありがとう。桜井。助かった。」
「いえ。お二人とも連日の捜査でお疲れなのに、まとまりのない資料になってしまってすみませんでした。」
 桔平のねぎらいの言葉に、少し面はゆそうに桜井は会釈して、自分の席に戻っていく。
 黒羽はまだ天井を見上げたままで。

「黒羽。」
「あー?」
「俺なりに考えてみた。あいつらが俺たちに挑んできたわけを。」
「ああ。」
 ぐっと椅子を引いて、黒羽は桔平に体ごと向き合う。桔平と黒羽のデスクは間に小さなファイル棚を挟んで隣同士である。

「ケーキ屋のイチゴを入れ替えたときから、あいつらの計画はすでに始まっていたんじゃないか、と俺は考えている。まずは俺たちを表舞台に引きずり出す。それはなぜか。俺たちはずっと、あの日の『後悔させてやる』という約束を果たすためかと思っていたが。」
「それが目的じゃなかったようだな。そうだったら、もう、とっくにゲームは終わっているはずだ。」
「ああ。あいつらの計画には次のステップがあった。俺たちを六角海岸におびき出す。それから、六角カントリークラブ跡地に……俺たちの目を向けさせる、という。」
「だけどゴルフ場の件は、橘が偶然気づいたんだろ?」
「オジイがいなくなった、という話をすれば、あの磯がおかしくなっている原因が何か、俺たちが探ることくらい、想像がつくだろう。だとすれば、ゴルフ場跡地に気づくのは時間の問題だ。」
「……それもそうか。」
 桔平は茶を口に含み、味わってからゆっくり飲み込むと、言葉を続ける。

「だとすれば、あいつらの目的は何か。あのゴルフ場跡地を何とかしたいというのは分かる。だが、あそこに植林するのを手伝えという話ではないだろう。」
「だろうな。そんなら、普通に話してくれれば良かったはずだし。」
「そうだ。あいつらが……怪傑D&Bが、特殊捜査班ミルフィーユに挑まなくてはならなかった理由は、そんなものではないはずだ。」
「ああ。だからって競売にかかった土地を買ってくれというわけでもないだろう?」
「そんな金はあるまい。俺にもお前にも。」
「おう。」
 黒羽は胸を張る。金を使う暇がないので、貯金がないわけではないが、それにしたってゴルフ場を買うほどの金はない。
「あいつらに金がないのも分かっている。余分な金があったら、あいつらは苗木を買ったり、肥料を買ったりしているはずだからな。」
「ということは、だ。」
 ふむ、と黒羽は腕を組んで。
「あいつらには、橘と黒羽ではなく、『特殊捜査班ミルフィーユ』の力が必要だ、ということだな?」
 桔平の結論を先回りする。
「その通り。」
 桔平に肯定されて、黒羽はにっと笑い。
「あいつらにできなくて、特殊捜査班にできることは何か、というのが問題ってことか。」
 そう言いながら、卓上の湯飲みにようやく手を伸ばした。そして。
「あ……茶柱。」
 小さく声を上げ。
「縁起が良いな。」
 努めて平静を装って、桔平が応じれば。
「……さんきゅ。橘サン。」
 何に礼を言ったのかは分からないが、黒羽はにっと笑ってそう言った。


 翌朝。
 始業時刻より一時間半くらい早く、桔平は執務室に到着した。
 気にかかることがあって、仕事前に調べておきたかったのである。
 だが、執務室の扉に手を掛けると、鍵を開くまでもなく扉はかたりと開いた。
「……誰かいるのか?」

 受付のあたりの明かりは消えている。しかし、彼らのデスクが並ぶ奥の部屋には明かりが煌々と灯っていた。
「……あー?橘サンか。早いな。」
 ぼさぼさの髪を無造作にかきあげながら、背広の袖を捲り上げた黒羽が姿を見せる。
「……早いなってお前……昨日から帰ってないのか?」
「なんか、いろいろ考えたり調べたりしてたら夜が明けちまった。慣れないコトするもんじゃねぇな。」
 照れくさそうに笑って、黒羽は手にしていたペットボトルをぐっと飲み干す。
「それよか、時間良いか?ちょっと相談したいコトがあんだけど。」

 黒羽のデスクには資料がごちゃごちゃと積み上げられている。きっと黒羽なりに頑張って調べ上げた成果なのだろう。そう考えて、桔平は今すぐ整頓したい衝動をこらえた。

「あのな。D&Bの件なんだけど。」
 キャスター付きの椅子をぐいっと引いて、桔平と向き合った黒羽は、卓上の資料に目も向けず口を開く。
「あいつらの時効、どれくらいだと思う?」
 桔平もまさにそれを確認しに来たところであった。しかし、そうとは口に出さず。
「桜井にでも聞けば分かるんじゃないか?」
「おう。そうなんだけどよ。ちょっと調べた。結構長いぜ?ヘリコプターのレンタル会社からヘリ窃盗した件とかな。すぐ返してたけど窃盗は窃盗だ。ダビデの場合は、無免許でヘリ運転した疑惑もあるしな。」
「確かにその辺は時効がかさむな。あれを窃盗扱いするなら7年か。」
 ケーキ屋のイチゴを入れ替えた事件などは、刑事事件にならなかったから、時効も何も、犯罪自体が成立していないわけだが。
「それで?」
 桔平はゆっくりと黒羽に続きを促す。

「ああ。そんで、ちょっと話変わるんだけどよ。あいつらとしては、ゴルフ場が競売に掛けられちゃ困るわけだよな。今の状態は、登記簿上は××銀行に所有権があるわけだけど、実質的には野放しになっている。だから、今、あいつらは『どうしても手に入れなきゃいけないモノ』を手に入れた状態にあると言っても良い。」
「そうだな。」
「だけど競売になったら、土地は再開発する業者の手に渡るだろう。それを止めるには、競売でほかを上回る金額で入札するか……競売自体を阻止するか、だ。」
「そういうことになるな。」
「あいつらには入札できるはずもないし、競売を阻止することはできない。まぁ、入札を延期させることくらいはできるかもしれないけども……それはその場しのぎにしかならない。」
「ああ。」

 黒羽はペットボトルに口を付け、それが空であったことを思い出したらしく軽く眉を寄せた。
「ほら。」
 自分の朝飯用のつもりであったが、桔平は手持ちのコンビニの袋から、お茶のペットボトルを取り出して、黒羽に放り投げる。
「悪ぃ。」
 遠慮なく受け取って、黒羽はさっそくキャップを開いた。

「それで考えたわけだ。」
「ああ。」
「あのゴルフ場が、D&Bのアジトの可能性が高い、と仮定する。だとしたら、俺たちは捜査上の証拠物件として、あの土地を差し押さえられる、よな?」
「……そうだな。」
「差し押さえられたら、××銀行は競売できない、よな?」
「当然だ。」
「だとしたら、あいつらの時効が成立するまでは、あの土地は俺たちが差し押さえられるってわけだよな?」
「……確かにそういうことになる。」
 桔平の肯定に黒羽はぱっと顔を輝かせた。
 昨夜、桔平もまさに同じコトを考えていた。しかし、一つ、問題が残る。

「だが、7年経ったらどうする?いつまでも土地を確保できるとは限らないぞ?」
 桔平の疑問に、黒羽はにっと笑って。
「時効成立前に、別の事件を起こせば、時効は伸びるだろ?」
 どうだ?という顔で桔平の目を覗き込む。
「……なるほどな。」
 感心したように桔平がうなずくと、黒羽は急に力が抜けたように椅子の背にもたれて、ふぅっと深い息をついた。
「証拠物件として押さえるところまでは思いついたが、時効が伸ばせるとまでは思わなかったぞ。」
 黒羽のデスクからペットボトルを取り上げ、一口飲むと、桔平は立ち上がる。
「土地の差し押さえの手続きなどは、俺の方で準備しておく。お前は応接室ででも少し休んでこい。」
 時計を見上げれば、始業までまだ一時間以上ある。
「そうだな。あと、頼む。時間になったら起こしてくれ。」
 一つ案件が片づいてほっとしたのだろう。突然疲れが出たかのように、黒羽は執務室の隅のソファに身を投げた。

「おい。そこで寝るのか?」
「……おぅ。橘サンのいるトコが良い。」

 ごそごそと寝やすい姿勢を探しながら、黒羽がくぐもった声で言い。
「……。」
 ここで寝ていたら、早い時刻に着く森や石田が気を遣うだろうが、などと思わないわけでもなかったが。
 大きな背中をこちらに向けて窮屈そうに転がる黒羽の姿を見ていると、追い立てるのも可哀想になって。

「おやすみ。」
「……ありがとな。いろいろ。」
 少し眠そうな声音で、黒羽が低くつぶやく。
 何がありがとう、だ。
 小さく笑って、桔平は黒羽の卓上に積まれている資料に手を伸ばした。
 寝ているうちに片づけといてやるとするか。

 そしてすぐに黒羽の規則正しい寝息が執務室に聞こえ始めた。





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