<3>
時は少しだけ遡って。
黒羽たちがビールを片手に夕食に舌鼓をうっていたころのこと。
六角町の外れの小さなマンションの一室、門灯も灯していないドアを手探りで開き。
「ただ今、ただいまをいいます……ぷぷ!」
「お前、毎日、『ただいま』ネタ考え続けているわけ?それだけ毎日考えてんのに、一度も面白いネタがないってのが、俺には理解できないんだけど。むしろそっちの方がすごいんじゃない?一度も笑えるネタを出せないって、お前、もしかしたら天才かもな……」
天根と伊武の二人が帰宅した。天根はまっすぐに冷蔵庫に向かい、冷やしたタオルを取り出す。
「伊武……腕とか冷やさないと。」
「放っとけよ。」
居間の電気をつけながら、伊武は不機嫌に言い捨てた。だが天根もめげずに寄ってくる。
「ダメ!日焼けってやけどの仲間なんだから、冷やさないとダメ。」
「じゃあ、自分の腕、冷やせば?」
「……俺は……。」
窓を開け、網戸にする。そして振り返れば、しょんぼりを絵に描いたような天根が、悲しそうに見つめてきて。
天根が自分ばかり頑強であることを後ろめたく感じていることは、伊武にも分かっていた。そんなコト、後ろめたく感じるようなコトじゃないだろ。何度そう言っても、天根は理解しない。まぁ、天根はばかだから仕方ないか。伊武もその辺は諦めていた。「分かった。好きにしろよ。」
無愛想な表情のまま、乱暴に椅子を引いて座る。途端に目を輝かせて、天根はぺたりと伊武の腕に冷やしたタオルを載せた。
「……冷たい。」
「ごめん。」
「うっとうしい。謝るな。」窓の外からは虫の声。海の家がにぎわう季節もそろそろ終わる。
「ねぇ?」
「……バイトなら辞めないからな。」
「う。」
夏になると何度でも繰り返される会話。日に焼けにくく、毎日肌が真っ赤に腫れる伊武を気遣って、天根は毎日のようにバイトを辞めるようにと言った。だが、伊武はあの海から離れる気はない。「この部屋からでも……オジイのいた海、見えるし。」
「……部屋にいてどうすんだよ。」
「な、内職のバイトとか?」
「たとえば?」
「……傘張り?」
「……傘張り?」
「うん……この前、テレビに出てた人が言ってた……『傘張りで生活を支えるでござる』とかって……!」そこまで聞いて、伊武は、思いっきり息を吸い込んだ。
「だいたいな、お前、なんで時代劇で情報収集してんだよ。意味ないだろ?普通、フィクションとノンフィクションの違いくらい、分かるだろ?お前がばかなのはよく知ってるけど、いくらなんでもそれは頭悪すぎだ。お前の頭の悪さはもはや犯罪の域だよな……」
天根がいそいそと伊武の腕を冷やしている間、伊武は延々、ぼやき続けた。
伊武も天根も分かっている。伊武は日焼けに弱いだけで体が弱いわけではない。人並みよりはずっと体力も運動神経もあると自負しているくらいだ。第一、体が弱かったら、怪傑D&Bなどやっていられない。
磯の香りの風が、カーテンを揺らす。「……そういえば黒羽さん、俺らのこと、本当に覚えていたんだな。」
突然思い出したように、伊武はぼやくのをやめ、話題を変える。
「……うぃ。だって海から帰るとき、バネさん言ってた。『俺、絶対、お前らのコト忘れないぞ』って。」
何度も頷きながら天根が嬉しそうに応じるのに、伊武は鼻を鳴らし。
「そんな口約束信じられるか。だいたい、十年前、一緒に飲んだときも俺たちのコトに気付かなかったじゃないか。」
軽く腕を上げる。さっきまでのほてった感覚はだいぶ和らいできた。
「それは俺たちもそう。……バネさんが春風くんだなんて、気付かなかった。名前名乗らなかったから……。」
伊武と天根が、刑事黒羽を、磯で遊んだ少年と同じだと気付いたのは、黒羽たちについての探りを入れ始めてから。彼らのフルネームを知って、やっと気付いたのだ。春風などという珍しい名前だったからやっと分かった。そういう意味では、伊武たちも黒羽が今日まで気付かなかったことを責められない。「でも……覚えていてくれて良かった。」
ゆっくりと天根が呟いて、冷蔵庫に向かう。替えのタオルを取りに行ったのだろう。伊武はリモコンを取り上げて、テレビをつけた。それは彼らにとっては青天の霹靂だった。いつものように磯に遊びに行った天根と伊武を待っていたらしいオジイは。
「明日ぁ、わしは他の浜に行くからぁ、もうここにはおらんぞぉ……。」
いつもの調子でのんびりと山を指して言った。
「なにせあそこの木がなくなったからのぅ。」
突然のことに天根は大声で泣いた。伊武はどうしてか泣く気になれなかった。涙も出ない。唇を噛みしめて黙っていた。
「泣かなくていいぞぉ……わしはそのうち帰ってくるからのぅ……。」
なのにオジイが節くれ立った指で撫でたのは、伊武の頬で。それからゆっくりと天根の頭を撫でた。波の高い日だった。
「いつ……帰って……くるの?」
「それはぁ……あの山の木がぁ……戻ったらのぅ。」
オジイはいつも通り飄々として、二人の顔を見比べ。
「二人ともぉ、いつまで経っても泣き虫だのぉ……。」
そう言ってからからと笑った。
それがオジイとの最後の会話だった。「……どうしても手に入れなきゃいけないモノがあるんです。……俺らはそれをいつか盗み出す。そのために生きている。今も……これからも。」
なぜあのとき、桔平と黒羽にこんな言葉をぶつけたのか。
飲み屋での遭遇からしばらくして、伊武はふと黒羽たちのことについて調べた。なんで調べようなんて思ったのかも、今では伊武自身でさえよく覚えていない。ただなんとなく、あの人たちだったら分かってくれるのではないか、と思ったのだ。何を分かって欲しかったかは今でも分からない。だが。
「気付いてくれる、かな?」
とことこと天根が戻ってくる。そして伊武の腕と首筋にぺたりと冷たいタオルを載せた。
「さぁな。俺が立てた計画だし。黒羽さんは頭悪そうだけど……橘さんは頭良いだろ?」
「……うぃ。伊武が立てた計画だし、橘さんは頭良いから、きっと平気。」
伊武はテレビから視線を離さないまま、心の中で小さく笑った。
お前、あれだけ黒羽さんを慕っているわりに、フォローなしか?
そう言って突っ込んでやるのも馬鹿馬鹿しかったので、伊武は黙ってゆっくりと視線を窓の外に向ける。
しばらくの間黙って天根は何かを考えている様子だったが、唐突に。
「……バネさんは優しいから、俺たちを助けてくれる。俺たちの計画を手伝ってくれる。だから……絶対平気……!」
嬉しそうにそう断言した。
天根を振り返ることもなく、伊武は小さく舌打ちする。
こいつのこういうところ、大嫌いだ。
もちろんそんなことを言ったら、頭の悪いこいつのことだ。全部真に受けて大へこみするに決まっているから、優しい俺は黙っていてやるわけだけど。伊武の視線を追って、天根も窓の外に目を向ける。
「俺たちの……イカ食う計画……ぷぷっ。」
「……イカ食うだけなのに計画がいるのかよ。お前、本当に救いようのないあほだな。日本語の意味、分かってるわけ?一度、計画って言葉、辞書引け。辞書引いて、意味を五十回広告の裏に書き写せ。それくらいしないと、お前の脳みそじゃ理解できないんじゃないの?ホント、信じられないな……」
伊武のぼやきを天根は真顔で一生懸命聞いている。伊武はどんなダジャレにも丁寧に突っ込んでくれる。バネさんと同じくらいいい人だ!と天根は信じていた。
もちろん、そんなことを言ったら、照れた伊武に口きいてもらえなくなるに決まっているから絶対言わないけど。夜の闇の中で、潮が砕ける音が微かに聞こえていた。