<2>


 二三カ所、心当たりのある場所をめぐるうちに、黒羽の機嫌もだいぶ回復していた。
 六時前にはもう予定していた捜査もあらかた片づいて、宿へと向かう。三階建てのこぢんまりした和風旅館。海からは少し離れ、裏手にはもう山が迫っている。六角町の狭さが分かる立地であった。
「佐伯のお勧めの宿なら期待できそうだな。」
「まぁ、サエのお勧めなのは宿じゃなくて女将らしいけどよ。石田の名前で予約してるんだっけ?」
「ああ。」
 D&Bはミルフィーユの本名を知っている。だから佐伯の知っている旅館に、杏に電話を掛けさせて石田の名で予約を入れるなど幾重にも警戒を重ねたわけだが、おそらくそれはムダな手間だったのだろう。自分たちを六角町におびき出すことこそが、彼らの狙いだったようだから。

 「不二家旅館」と書かれたガラス戸を開ければ、店の奥から青年が飛び出してきて。
「いらっしゃいませ!」
 と声を掛ける。
「予約していた石田だが。」
「石田さま、お待ち致しておりました!」
 宿帳に目をやって、爽やかな笑顔で黒羽たちに視線を向けた青年は、一瞬「あれ?」という顔つきになり。
「あの……失礼しました!お部屋へ、ご、ご案内します!」
 ちょっと動揺した様子で、鍵を取り出した。
「どうかしたのか?」
「い、いえ。あの……宿帳に……石田さまご夫妻(新婚)って書いてあったもんで……兄貴のヤツ、何勘違いしたんだろう。失礼しました……!」
 おろおろしている青年に三階の和室に通される。決して広くもないし豪華でもないが、こぎれいな部屋である。
 青年がふすまを閉じて退室すると同時に黒羽が吹きだした。

「杏のヤツ……何考えてんだよ。新婚って。」
「……分からん……。宿の人に悪いことをしたな……。」

 真夏ではないにしろ、一日中屋外を歩き回れば、汗もかく。二人は荷物を片づけると大浴場に行って汗を流した。
「ふぅ。気持ちよかった。」
 そのころには黒羽の機嫌もすっかり元通りで。
「それにしても橘って浴衣似合って良いよな。」
「……なんだ?俺の足が短いと言いたいのか?」
 桔平の低い声に、黒羽は容赦なく笑う。
「……とにかく黒羽。お前は帯の結び方がおかしいんだ。だからすぐにだらしなく着崩れる。」
 部屋の窓から、夕方の風が吹き込んでくる。昼間は暑くても夕方になればかなり涼しくなる。しかも海と山に挟まれて、気配はすっかり秋であった。

「ちょっと来い。帯、結び直してやる。」
 桔平が黒羽の帯に手を掛けたその時。
「失礼します!夕食をお持ちし……!」
 先ほどの青年が勢いよくふすまを開けて。

「……失礼しました!!」

 そのままの勢いでふすまを閉じた。

「……待て。今の流れだと、お前が悪代官で、俺が町娘か?」

 数秒の沈黙の後、黒羽が苦虫を噛み潰したような声で尋ねると、桔平は穴の空くほど黒羽の顔を見つめてから、堪えられない様子で笑い出した。
 三分ほど経ってから、ふすまを軽くノックする音とともに。
「先ほどは弟が失礼しました。」
 柔和な笑顔の青年が姿を見せる。そして、にこにこと手際よく夕食の膳を並べ出した。

「そういや、女将さんは?」
 気まずい沈黙に耐えかねて黒羽が尋ねると。
「申し訳ありません。姉は今日明日とお休みをいただいて、温泉に。」
 顔を上げ、上品に青年が応じた。なるほど、さっきの青年とこの青年は、女将さんの弟たちなのか。桔平は目の前の青年の顔から女将の顔つきを想像してみたが、いまいちよく分からなかったのでやめておいた。
 からり、と音を立ててふすまが閉ざされ、黒羽のコップにビールを注ごうとして、その顔を見やれば。
「あのよ?なんか釈然としねぇんだけど。」
 黒羽が口を開く。
「どうした?」
「……サエがよ、今週末、温泉旅行に行くって言ってたんだけどな?」
「……なるほど。それならそういうことなんだろう。」
 座布団にどっかと腰を下ろし、黒羽はあぐらに頬杖を突き。
「……女将さんの旅行中の留守番かよ。俺らは。」
 ふてくされたように呟くと、注がれたビールをぐっと飲み干した。

「佐伯好みの女将を拝めなかったのが残念だな。」
 もう一杯注いでやりながら、桔平が笑えば。
「そういや、橘サンの好みのタイプってどんなんだ?」
 返す刀で斬られかける。
「俺の好み?そんなの聞いてどうする。まぁ……そうだな。健康的で……俺に突っ込みを入れてくれるような……。」
「要するに俺か?」
「……そうかもしれん。」
 桔平の返事に黒羽は一瞬間をおいてから笑い出す。
「なんだよ。やけに素直じゃねぇか。」
「なにぶん、俺たちは新婚らしいからな。」
 黒羽はそれに答えず、にやにやと黙ってビールを桔平のコップに注いだ。

「新婚といえば……杏は元気か?幸せそうか?」
「石田を見れば分かるだろう。来年の春には俺も伯父さんらしいぞ。」
 くつくつと喉の奥で笑いながら桔平が言う。
「へぇ。そりゃめでたい。」
 黒羽は桔平のコップに、自分のコップをかちりと合わせ、乾杯する。桔平は箸を置いて、照れたように口元を引き結んだ。
 そして、おもむろに口を開く。
「……俺は昔から、杏は木口と結婚すれば良いと思っていたんだ。」
「なんだ?いきなり。誰だよ、木口って。」
「知るか。」
「知るかって……おい。部下に妹盗られて寂しいからって拗ねるなよ。」
 少し困った様子の黒羽に、桔平は穏やかに笑って、コップに付いた水滴を指に、卓上に縦書きで。





と書いて見せた。

「……あのな。」
 呆れたように笑いながら、一応桔平の額を小突いてやる黒羽。桔平は軽く肩をすくめると窓の外に目をやった。
 窓の外は夕闇に包まれ、もうすっかり薄暗い。宿の裏手の山が窓一面に広がって、木々のそよぐ音さえも聞こえてきそうである。

「……おい。黒羽。」
 突然、冷静な声に戻る桔平。窓の外を指さして。
「あんなところに……ゴルフ場がある。」
 凝視すれば、夕闇に慣れてきた目に、ムリヤリ山肌を削り取って造ったゴルフ場らしきものが、ぼんやりと浮かび上がる。
「ああ?何だ?ありゃ。俺が前来た時にはなかったぞ?」
 窓から身を乗り出す黒羽。
「あんな無茶なモノ、バブル期に造成したものだろう。山があれだけ荒らされれば……川も磯も死ぬわけだ。」
 桔平は低く呟いて、コップに残っていたビールをぐっと飲み干す。
「……死ぬとか言うなよ。」
 振り返らずに黒羽が言った。
「川も磯も死んじゃいねぇよ。ただ……病気なだけだ。」
「ああ。悪い。そうだな。」

 黒羽はしばらく山を食い入るように見つめていたが、ふぅっと小さく息をついて、自分の座布団に戻った。
 そして黙って桔平のコップにビールを注いで。
「明日の朝、見に行ってみるか?」
 桔平の問いに一度だけ深く頷いた。窓の外からは絶え間なく虫の声が聞こえていた。


 翌朝。
 陽差しは夏の色であったが、山近い宿は、気持ちの良い風が吹いていた。
 朝食を運んできた若い方の青年に、桔平が。
「あのゴルフ場は繁盛してるのか?」
 窓の外を指し示して尋ねれば、青年は少し困ったように。
「十年くらい前に倒産しました。だから今は管理している人もいなくて荒れ放題ですよ。しかも……変な噂もあるし。」
 と応じる。
「変な噂?」
 まだ浴衣のままであくびをしている黒羽を横目に見ながら、すでにスーツに着替えていた桔平はポットからこぽこぽと茶を淹れた。
「ええ。別に幽霊とかじゃないと思うんですけど……人の声がするっていうんですよ。誰もいないはずなのに、何か言ったかと思うといきなり吹きだしたり、延々ぼそぼそぼやき続けたり。変なヤツが住み着いてるんじゃないかって噂で。イヤになりますよ。商売している俺たちの身になってくれってもんです。」
 不二家旅館にしてみれば、町や店のイメージダウンに繋がるようなそんな話をするのも憚られるはずだが、その青年は全く気にする様子もなくさばさばとそれだけ言って。
「後で片づけにうかがいます。」
 お盆を抱えて、爽やかに出て行った。

「……それって。」
 ぼりぼり頭を掻きながら、座布団にあぐらをかく黒羽の前に、桔平は湯飲みを置く。
「まぁ……そういうことだろうな。」
 窓の外に目をやれば、確かに山肌に張り付いた「それ」は、ゴルフ場という風情ではなく、雑草が生い茂っていた。


 チェックアウトをすませ、二人はゴルフ場の跡地へと足を伸ばした。宿のそばの駐車場から車でおよそ5分。寂しげな野原が一面に広がっている。
「こんなトコにゴルフ場を造って、採算取れるつもりだったのかね?」
 道が尽き、車を降りて一歩行けば、そこはもう膝丈の草むら。黒羽は大きく溜息をついた。
「場所は便利だが……採算が取れるとは思いにくいな。」
 桔平が率直な感想を述べる。それに小さく頷くと、黒羽は黙って「草原」の奥を眺めた。
 草が生い茂ってはいるが、ひどい雨でも降れば根こそぎ土砂崩れで持っていかれかねない。山としては荒れているとしか言いようがない。ここに木が生えるようになって、雑木林が戻ってくるまでに、何年、いや、何十年かかることか。
 ぐるりと視線を廻らせていた黒羽は、突然がさがさと丈の高い草をかき分け歩き出した。
「どうした?」
「いや……あっちに……なんか、木が生えてるんだ。」
 ゴルフコースの隅だった辺りだろう。「草原」の端には小さな木が生え始めており。
 黒羽はようやくそこにたどりつくと、そっと根元を覗き込む。
「……違うな。生えてるんじゃねぇ。誰かが植えたんだ。」
「……誰かが植えた?」
 一生懸命伸びようとしている細い苗木に指先で触れる。
 「誰か」が誰であるかなど、もう分かり切っていた。ダジャレを言って自分で吹きだしたり、延々ぼやき続けたりするヤツらが、山を取り戻そうとして植えたに違いないのだ。どうしても盗み出したいものがある、と、あの日、確かに彼らは言っていた。

 整然と並ぶ苗木は、ところどころ枯れかけていたが、それでも必死で生きている。全てが同じ大きさではなく、少し育ってきた苗木の列もあれば、まだまだ植えたてのような若木もある。

 一番小さな苗木の前に、黒羽はしゃがみこんだ。
「馬鹿野郎。あの岩場にオジイが帰ってきたって、オジイは子供にしか見えないんだぞ?お前らはもうオジイには会えないんだぞ?」

 桔平は黙って空を見上げた。六角の空は、海よりも明るい青だった。





>へ。    パラレル頁へ。