<3>
いや。やつらが動いた理由は明白だ。
執務室の窓から遠い空を見上げて、橘はゆっくりと思い出していた。恐ろしいほど晴れ渡った空。そして、風はほとんどなく、小さな雲だけが空を静かに渡っていく。
あれはまだ駆け出しのころ。過酷な仕事と安月給の折り合いを付けて、同期の黒羽と二人、安い地下の居酒屋で下らない話をして憂さを晴らしていたあの日。
小さなテーブルに、安っぽい椅子、そんなありふれた作りの店内は、それでも活気に溢れていて、満席だったように記憶している。そのとき、たまたま隣りに二人組の男が座っていたのだ。年の頃は自分たちと同じくらい。二十代初めの普通の青年たちで、ただ、どこか違和感を感じるほどに整った顔立ちばかりがやけに印象的だった。
違う。
印象的だったのは顔立ちではない。
顔立ち以上に異様だったのは、二人揃って俯いて、黙々と箸を動かしていたコト。そして、唐突に長身な方がぼそっと何かを呟いたかと思うと、今度は細身の男が延々と何かをぼやきだしたコト。
こいつら、居酒屋に来て、そんなにぼそぼそとしゃべって、何か楽しいのか?
そんな思いで、見るともなくそちらに目をやっていた橘に。
「あー?酒、足りないか?」
少し酔ったのか、心持ちいつもより声の大きい黒羽が、肩に手を掛けて。
そして、橘の肩越しに、二人組の男に気付く。
一瞬の沈黙。
黒羽の目が変わった。
どこがどう変わったというのではない。だが、橘はそのとき、黒羽の目が変わったと感じた。何だろう。何か、そう、何か見つけたときのような……。
連れの視線に意味を求めて、酒の回った頭でもつれた糸を辿っていた橘の耳に。
「……ウィスキーはどう?うぃ。好きー。……ぷぷ。」
低い声が届いた。その直後、鳴り響く「がしゃん!」という激しい音。はっとして、振り返った橘は。
「黒羽?!」
自分に寄りかかるように、隣りのテーブルを見ていたはずの連れが、いつの間にか姿を消しているコトに気付く。
「今、何て言った!!」
コトも有ろうか、黒羽は隣席の長身の青年の前に立ちはだかり、テーブルに手を突いて威嚇しているところだった。いや、本人は威嚇しているつもりはなかったのだろうが。
「……ウィスキーはどう?うぃ。好きー……!」
威嚇されている青年も、全く動じる様子もなく、同じ台詞を繰り返す。しかも、何かを期待するかのように目を輝かせて。
「くだらねぇんだよ!!!」
そして。
橘の連れは、見ず知らずの他人のダジャレに、額の正面から、まっすぐなツッコミをお見舞いし。
「……痛い……。」
初対面であるはずのその青年は、なんとも嬉しそうに額を押さえてテーブルに突っ伏したのであった。
そこからは、どういう経緯でそうなったのか、橘もよく覚えていない。だが、とにかく、自分のグラスを片手に黒羽は隣りのテーブルに移動してしまったばかりか、手持ちぶさたになった橘の袖を掴んで、無理矢理そっちに連れて行き、どさくさで四人一緒に飲む羽目に陥ったことだけは確かである。
何の話をしていたのか、覚えていない。
とにかく、楽しくて。
「アジのたたき、アジの味がする……!」
「当たり前だろうが!!」
がしゃん!!!
とにかく、笑い続けて。
「じゃあ、変える。……このアジのたたき、味わい深い……!」
「確かに美味しいな。意外と新鮮な魚を使っている。」
「おい!橘!真面目に返事すんなよ!!こいつ、困ってるだろうがよ!」
びしっ!
黒羽は、長身の青年――本名かどうかは失念したが黒羽はダビデと呼んでいた――を小突いて。
「お前、そのくだらねぇダジャレ、何とかしろよ。」
と手厳しいツッコミを連発しながら、しかし、これ以上ないくらい楽しそうに居て。突っ込まれた青年も、いたく楽しげで。
ほとんどしゃべらなかったが、華奢な方の青年――確か伊武と名乗った――も、まんざらでもない様子で彼らのはしゃぎっぷりを見守っているように見えた。
いや、伊武もしゃべらなかったわけではない。
「橘さん、魚好きなんですか?」
「俺か?俺は魚も好きだが……魚好きなのは黒羽だな。こいつは海のそばで育ったから、魚に関しちゃちょっとうるさい。」
「へぇ。そうなんですか。漬け物とかはどうです?」
もしかしたら、寡黙な彼なりに、かなりはしゃいでいたのかもしれない。
まぁ、それだけなら、ただの相席。酔っぱらい同士なら、ままある話。
だが。
別れ際。
冗談とも本気とも取れる口調で。
「橘さんたちには分からないでしょうね。俺らが何のために生きているかなんて……。」
伊武がそう呟いて。
「何だ?」
問い返したのは橘だったか、黒羽だったか。
「……どうしても手に入れなきゃいけないモノがあるんです。……俺らはそれをいつか盗み出す。そのために生きている。今も……これからも。」
そこですっと酔いが引いたのを橘は記憶している。
勘定の記憶などほとんどない。だが、居酒屋の前の路地で、肩にもたれかかる黒羽をそのままに、橘は独り、急に頭が冴えたのだけはやけに鮮明に覚えている。
「お前は……泥棒……になるのか?」
「なるというか……生まれつきそういう人種ですから。俺達は。」
何か諦めにも似た響きで、伊武は自嘲気味に言い。
「どっちにしろ、そんなコト、あなたたちには関係ない。」
少し早口で付け加えた。たぶん、彼としても「未来」を口に出したことは、酔いの勢いに負けた一時の不覚だったのだろう。
「関係ある。俺達は警察のモノだ。」
深夜の繁華街は、人工的な光と、雑音に満ちている。
橘の言葉に、伊武は眉をひそめた。
「冗談でしょう?」
低く橘を睨み付けるその意志の強い視線。ダビデと呼ばれていた青年が、半歩前に出て軽く身構えるのを、黒羽が制して。
「俺はともかく、橘がそんな冗談を言うと思うか?」
軽い口調で応じながら。
「ま、でも、今日のところは冗談でも良いんじゃね?な、橘サン?」
そう言って笑ったのは、決して酔っていたからではない。
「いつか、今日見逃したコトを俺らに後悔させるような立派な怪盗になれよ?」
そう言って彼らを見逃したのは、決してその場の勢いではない。
それは橘もよく分かっている。
黒羽は彼らに何かを感じたから。その何かは、橘も感じていた。とにかく、彼らは犯罪者ではない。人に害を及ぼすような社会悪ではない。そうではない何かが彼らの内にはあった。
それが何だったのか。
「きっとあなたたちを後悔させます。」
伊武はそう言い捨てて踵を返し。
長身の青年は、何度かこちらを、おそらくは黒羽を振り返りながら、伊武を追って姿を消した。
彼らの背をずっと見送っていた橘に、黒羽がにっと笑いかける。
「酔い、醒めちゃっただろ。橘サン。もう一軒行くか?」
あれから……もう十年近くが過ぎている。
だが、怪傑D&Bは、あのときの二人組に間違いない。
彼らは約束を果たしにきたのだ。見逃したことを後悔させてやるという約束を。
いつの間にか、特殊捜査班の刑事として名を馳せた二人に、彼らは何を思っているのだろうか。
遠い空を見上げて、橘はふっと溜息をついた。
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