獣。
生田から戻った知盛は、帝や尼御前とともに御坐船に移り、一眠りした。一瞬の深い眠りと、そのあとの漂うような浅い微睡み。夢を見たような何も見ていないような、長く短い浮遊感。
体は確かに疲れ果てていた。ただでさえ落ち着きどころのない旅暮らしの日々。疲れたなどとは口が裂けても言いたくはない。だが、疲れていないはずはない。
ふと目を覚ませば、うっすらと月明かりが船室にこぼれていて。
外の様子をうかがえば、隣の舟に立つ将臣の姿が視界に入る。
見張りの兵以外、寝静まっているらしいこんな夜更けに一人。
あそこに立つのは還内府か。それとも有川将臣か。
「……。」
およそあのオトコには雅さというものがない。
重盛兄上なら和歌の一つ、漢詩の一首も吟じておられるかもしれないが。
いかんせん、あのオトコは粗野にすぎる。
自分が疲れているのだとしたら、あのオトコはもっと疲れているのだろうな。
あれは一介の将ではない。一軍の将だ。そして今日は……敗軍の将だ。
眠ることさえできないほどに疲れ果てているのかもしれない。
次々と、らしくもない考えが浮かぶ。
ばかばかしい。人を思いやるなどという腑抜けた感情は、経正殿にでも任せておけばいい。
「……。」
身じろぎもしない将臣の背。
あのオトコは確か自分より三つ四つ年下だったな。
そんなどうでもいいことまでふと思い出す。「おい。」
「あ?」
隣の舟に乗り移れば、将臣は驚いたように振り返る。
「なんだよ。寝てたんじゃねぇのか?」
「起きてて悪いか。」
言い捨てれば将臣は笑う。
「や。良いけど。どうした?眠れないのか?」
知盛は鼻白む。自分はそんな繊細な柄ではない。少なくとも……そんな風に思われるような柄ではない。
「尼御前たちは?」
「……寝ていらっしゃるだろう。」
お前は他のヤツらを心配するしか能がないのか?
人が寝ていようが寝ていまいがそれがどうした?
いらだたしげに舌打ちをする知盛を気にする様子もなく、将臣は腕を組んで。
「なら良かった。」
と満足げに頷いた。
水面を照らす月の光。
「そういや……源氏の軍に女がいたって?」
ふと思い出したように将臣が問いかける。
「ああ。獣のような女だった。お前にも見せてやりたかったぜ。」
「ふぅん。獣のような、ね。」
将臣はそのまま言葉を反芻し。
「ポチみたいな女か?」
嬉しそうに訊ねた。
「……ぽち……?ああ。お前が餌付けていた、あの小汚いやせこけた犬か。」
「小汚いとかいうなよ。ポチは愛嬌があって人なつっこいヤツだったんだぜ?」
なぜか妙に自慢げな将臣に、知盛は一瞬言葉を失い。
「……愛嬌があって人なつっこい女……?」
昼間見かけた源氏の神子を思い出して、ふるふると頭を振った。
「そうでない……獣のようなというのはしなやかで強い女だ。」
「ああ。そっか。ミケ子さんみたいな女か!」
「みけこさん……?」
そして知盛は思い出す。
福原の屋敷に、夏には一番風通しの良いところに陣取って、冬には将臣の布団に入り込んで、いつでものうのうと寝ている猫が居たコトを。
「ミケ子さんはけんかとかしてもむちゃくちゃ強かったからなぁ。しかもしなやかだったぜ?びろーんって伸ばすとすんげぇ長くなるの。」
知盛は答えなかった。
答えても意味がないと思った。
びろーんって伸ばすとすんげぇ長くなる源氏の神子などいてたまるものか……!
「や〜、ミケ子さん、元気でやってるかな。」
知盛の戸惑いを知ってか知らずか、上機嫌に笑う将臣。
「ミケ子さんって、腹の毛もたまんねぇんだよなぁ。腹に顔埋めてもふもふする瞬間の幸せっていったらないぜ?」
腹の毛がたまらん源氏の神子。
腹に顔を埋めてもふもふしたくなるような源氏の神子。
知盛は指先をわきわきとさせつつ、ようやく低い声で突っ込んだ。
「断じてそのような女ではない……!」
このオトコが平家の頭領。
このオトコが誇り高き平家の将。
「違うのか?じゃあ、どんな女だったんだよ?」
将臣の真っ直ぐな問いかけに、知盛は少し迷い、このオトコに雅な比喩など通用しないのだと悟って、真面目に答えてやるコトにした。
「戦上手な強い女だった。」
「ふぅん。戦上手な強いヤツっていったらお前みたいな感じか。ん……お前みたいな女……?」
言ってから将臣はしばらく黙り込み。
そして。
「ありえねぇ……!」
勢いよく吹きだした。何を想像して吹きだしたかは、考えたくもない。
「有川……貴様、一度死んでおくか?」
知盛はとりあえず刀を抜いて、年下の兄を黙らせるコトにした。
穏やかな波が船縁を静かに打っては消えていった。
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