願。




 白竜は鳥の声で目を覚ました。
 眠る、という行為自体、人の営みであって、竜神である自分には無縁のモノだと思っていた。だが、今の体はすぐに眠くなる。すぐにくたびれる。それでも最近は神子たちの尽力の賜物か、あまり眠くならない。それを譲は「体力がついた」と言う。譲が言うのならそういうものなのだろうと白竜は思う。
 熊野の朝は京の朝とはずいぶん違っていた。
 それはたぶん、狭い部屋にみんなでぎっしり詰まって眠っているから、だけではない。鳥の声も陽射しも、京の梶原邸とは違うのだ。
「起きましたか?」
 押さえた声がする。
「あ。弁慶。おはよう。」
 部屋の隅で書をくっていた弁慶に気付き、白竜はにこりとほほえんだ。
「早いですね。」
 先に目覚めていた者にそう言われるのも不思議な気がしたが、弁慶が言うのならそういうものなのだろうと白竜は思う。
「うん。あれ?リズヴァーンは?」
「リズ先生は私が起きたときにはもういませんでしたよ。」
 他の皆はまだ眠っている。昨夜は久し振りに八人揃ったのが嬉しかったのか、神子や朔が休んでからも、ずいぶん夜遅くまで皆で話し込んでいた。酒もたくさん飲んでいたみたいだし、きっともうしばらくは起きないんだろうな。でも、八葉が楽しそうなのは自分も嬉しい。だからだろうか。昨夜はなんとなく幸せな夢を見た気がする。
 かさり、という人の動く気配。
「白竜。」
 振り返れば、弁慶が書を床に置き、白竜のそばに座り直していた。
「何?」
 白竜もまっすぐに弁慶に向き直る。
「私は竜神についていろいろと学んできました。でも分からないことがたくさんあるのです。聞いてもよろしいでしょうか?」
 少し遠慮がちに、小首をかしげて問う弁慶。
「もちろん。何でも聞いて。」
 にっこりと白竜は頷いた。
「教えてください。竜神は人の願いを、特に竜神の神子の願いを叶えてくれるのですよね。」
「そう。」
 深く深く頷く。そう。人が願えば……特に神子が願えば、その願いを叶えたいと思う。心からそう思う。
「では……例えばですよ。」
「うん。」
「例えば……望美さんが、九郎の天然ボケを何とかしてくださいと望んだなら……九郎の天然ボケは何とかなるんでしょうか?」
「神子が願うなら。」
 神子が願うなら、その願いが神子の本当の願いなら。
 きっとその願いを叶えたいと思う。
「では……望美さんが、私の罪深いほどの美貌を、さらに美しくしてくださいと願ったなら……私はさらに美しくなってしまうのでしょうか?」
「うん。神子が願うなら。」
 屋敷の外には強い夏の陽射し。
 朝の爽やかな空気の中に、暑い一日を予感する。
「やはり……そうなのですか。」
 弁慶は俯いて口元を押さえた。
 それは彼が何かを深く思い悩むときの癖。
 白竜は黙って弁慶の次の言葉を待った。竜神である彼にとって、人の時間など長いも短いも全て同じ。待つも待たぬも同じことで。
「ならば……。」
 人にとっては長く、竜神にとっては刹那の沈黙の後、弁慶はキッと目を上げた。
「ならば教えて下さい。もしも望美さんが……強く願ったなら。」
「うん?」
「もしも望美さんが、自分の願いを決して叶えないでください、と強く願ったなら。」
「……?」
「白竜……あなたは……どうするのですか?」
「……?」
「望美さんの願いを叶えなかったら、あなたは願いを叶えないでほしいという望美さんの願いを叶えてしまいます。望美さんの願いを叶えるとしたら、望美さんの願いを叶えてはいけないのです。」
「……!」
 弁慶のまっすぐな視線。
 白竜は大きく目を見開いた。
 話し声に目が覚めたのだろう。ふぁ、と生あくびをしながら、景時が緩慢な仕草で身を起こす。
 その視界の端。
 弁慶に見据えられたまま、白竜はその大きな目に涙を溜めていて。
「どうするのですか?」
「……。」
 膝の上に置いた小さな拳を握りしめ、白竜はこぼれそうな涙を一生懸命に堪えている。
「……白竜?どうした?」
 その様子に驚いたのか、急に覚醒したように景時が低く問えば。
 下唇を噛みしめていた白竜が目に涙を浮かべたまま、黙って景時にぎゅっとしがみつく。
「弁慶にいじめられたのか?」
 黙って白竜は頭を振る。
「じゃあ、どうしたんだ?」
 困惑しきりの景時の声。
 ふふ、と弁慶の満足そうな笑い声が、彼らの耳にかすかに届いた。
 今日もまたずいぶんと暑い一日になりそうだった。










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