別。




 屋敷内はばたばたとしていた。
 周囲のことになどほとんど関心を持たない知盛でさえ、異常に気づくほどの慌ただしい雰囲気。
 廊下に出てみれば、将臣の側仕えの女官が二人、普段見られないような急ぎ足で将臣の部屋に向かっているのが見えた。
「……?」
 女官たちの表情は緊張と恐怖に支配されている。恐怖、というのは適切ではないかもしれない。不安あるいは怯えとでも呼べば良いか。それはひどく見覚えのある表情だった。
「……。」
 そう。兄重盛が病に伏せっていたころの女官たちの表情と同じ。
 思い出すまでもない。嫌な記憶。
 主人を失うかもしれないという不安が、彼女たちにそんな表情を強いるのだ。父のときもそうだった。他の一門の者が病に倒れたときも、戦の傷を悪化させたときもそうだった。女官たちのその表情を、知盛は嫌というほどよく知っている。
「……。」
 しかし、あの還内府の身に何かあるとは思えなかった。今朝、見かけたときも人格を疑うくらい元気だったし、どう考えてもあの男が急な病に侵されるとも思えない。あの男の非常識さを見れば、病が怯えて逃げてゆくだろう。放っておけば、良い。
「……。」
 そうは考えてみたものの、知盛はどうしても自室に戻る気にはならなかった。
 まだ源氏の船が見えたという報告もない。何もない屋島の行宮で大人しくいるのも飽きたところだ。
 暇、だからな。
 何でもない暇つぶしのように、知盛はわざと歩調を落として将臣の部屋へと向かう。
 あの男の身に何かあろうはずがない。あって良いはずがない。
 そのとき将臣の部屋の御簾を跳ね上げて、年若い女官が走り出てきた。両手に抱える白い布は赤く染まっている。
 それは明らかに血の色であって。
 血だと……?
 そんな馬鹿なことがあるものか。粗末とはいえ、ここは帝を擁する行宮だ。刃傷沙汰などあってよいはずがない。源氏の刺客か?平家の同士討ちか?いずれ、行宮に入り込んであの男に傷を負わせるなど……そんな馬鹿なことが。
 下唇をかんでいる自分に気づく。
 くだらない。俺は何を緊張している?何を恐れているというんだ?
 ばさりと乱暴に御簾を避けて、ずかずかと将臣の部屋に上がり込めば、びっくりしたように知盛を見上げる将臣と目があった。
 あぐらを崩したような姿勢で座り込んで、肌脱ぎになった上半身には左腕と右肩に包帯を巻き付けられ、頬から首にかけても鮮やかな切り傷が見える。
「……その傷、どうした?」
 予想外に自分の声が低く強い口調であることに驚く。
「そんな怖い顔、するなよ。」
 苦笑する将臣に知盛は舌打ちをした。なぜこんなよそ者のために自分がここまでいらだたねばならないのか。馬鹿らしい。
 部屋の隅に控えていた女官が音もなく退出した。
「あのな。」
 片膝を抱くように将臣が、仁王立ちの知盛を見上げてくつろいだ姿勢で話し始める。
「さっき、庭で見つけたんだ。」
「……庭で?」
「ああ。すんげぇ可愛いネコ。」
「……ネコ……?」
「んでよ、ぎゅって抱きしめて頬ずりしてやろうとしたら、暴れられてさ。」
「……。」
「小さいくせにそいつ強くてさ。むちゃくちゃ引っかかれた。」
「……。」
 知盛は考えた。
 このまま思いっきり蹴り飛ばしてやろうか。
 それとも刀でざっくりいった方が良いか。
「結構、血が出てな。女官たちに心配かけちまったのは悪かったと思ってる。この包帯はどう考えても大げさだけどな。」
「……。」
「でも、知盛まで心配してくれるとは思わなかったぜ?」
「……。」
 心なしか嬉しそうに笑って見せた将臣に、なぜだかはよく分からなかったが無性に腹が立ってきたので、とりあえず知盛は刀を抜いてみるコトにした。
 将臣は動じる様子もなく、黙って苦笑したまま知盛を見上げている。
 首筋にすっと刃先を突きつけても、将臣はびくりとも反応しない。
「……。」
 にらみ合おうにも将臣は微苦笑のまま。それが更に苛立ちを生む。
 どれくらいの間、そのままでいただろうか?
 将臣がゆっくりと口を開いた。
「この前さ……お前が言ってた漢詩な。」
「……。」
「人生別離足る、だっけ?」
「……。」
 于武陵「勧酒」最後の一句だ。
 この男には全く教養というものがない。だが、その割には記憶力は悪くないらしい。その事実に軽い驚きを覚えながら、知盛は目で続きを促した。
「人生なんて別ればっかりだぜ、って意味なんだってな。経正に聞いた。」
「……。」
「でもよ。出会わなきゃ別れられねぇだろ?だったら、別れと同じ数かもっとたくさん、出会ってるはずじゃねぇの?」
「……。」
「だったら、人生出会い足る、でも良いんじゃねぇ?」
「……。」
「俺は、お前に会えて良かったって思うぜ?お前だけじゃねぇ、平家のみんなにな。本当だったら会えないはずのヤツらにいっぱい会えた。だから俺、この世界に来たコトには全然後悔してねぇんだ。」
 理由は分からなかった。だが、知盛はそうしなくてはならない気がして、黙って刀を鞘に収めた。将臣が笑みを深める。
「ってなわけだからさ。」
「……。」
「俺は絶対諦めたくないんだ。」
 不思議な自信を持って言葉を続ける将臣。
 これが還内府。
 これが有川将臣。
 時としてこの男は、平知盛すらも声一つで圧倒するのだ。
 還内府の名は伊達ではない。
 にやり、と将臣は自信に満ちた笑みを浮かべ、知盛を見据えた。
 気圧されて、知盛は息を呑む。
「いつか必ず……。」
「……。」
「絶対、だ。絶対、頬ずりしてやる。あのネコの腹にな!」
 そう。
 これが還内府。
 これが有川将臣。
 知盛はふぅっと息を吐いて。
 とりあえず、傷のなさそうな左肩を狙って、思いっきり蹴り倒してみることにした。









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