酒。
ふわり、と御簾を揺らして夕風が吹き抜けてゆく。
もう一度ふわり。
風かと思えば、今度は将臣が顔を出す。
「知盛。」
珍しく深刻な顔をして。
「今日は何月何日だ?」
「……皐月の八日だろう。」
壁により掛かって刀の手入れをしていた知盛が顔も上げずに答えれば。
「やっぱりそうか……!」
俯いて舌打ちをする。
「何だ?」
一応、何事かと聞いてやるのが弟としての礼儀だろう。
知盛は知盛なりの心遣いでぶっきらぼうに問いかけた。
「いや……今日はゴーヤの日なんだ。」
「……?」
そして問いかけたコトをその場で後悔する。
この男の言葉はおよそ意味が分からない。
「あああ。ゴーヤ食いてぇ。」
なるほど、ゴーヤとは食い物か。
じたばたする将臣の声を聞くともなしに耳にしながら、知盛は刀から目を離すコトもなくただ座っている。
掲げたままの御簾の狭間から、ふわりと五月の風が薫る。
「この世界じゃ食えるわけねぇよな。ちくしょう……。」
知盛が取り合わないのはいつものコト。それでめげるような将臣ではない。仮にも平家一門を清盛に委ねられた男である。だが、今日は里心が付きでもしたのかやけにいじけた様子を見せる。
普段なら決して弱音など吐きはしないものを。よほどその「ごーや」とやらが心にかかると見えるな……。
さすがの知盛もいささか不憫さを感じて。
「……。」
そっと視線を上げれば。
「譲の作るゴーヤチャンプルが絶品なんだよなぁ……。」
独り言のように呟いた将臣が。
「悪い。邪魔した。」
とぼとぼと帰ってゆくところで。
「……待て。」
譲、という名は知っている。有川将臣の弟の名だ。
御簾の裾がそっと床を掃いて揺れる。
知盛は平重盛の弟であって、有川将臣の弟ではない。その譲とやらに対抗意識を燃やすいわれなどまるでないのだが。
もし重盛兄上がどこかで一人で生きているのだとしたら。
ふとそんならちもないことを思う。
もし重盛兄上が寂しいとき、自分を思い出して懐かしんでくれるコトがあるとしたら。
そのとき、誰が重盛兄上を労ってくれるのだろうか。
俺は何を考えている。ばかばかしい。
知盛は刀を置いた。
「その『ごーや』とやらはどんなものだ。」
薄闇の庭からは夏の虫の声。
つとめて興味がない風を装い訊ねる知盛に、将臣は「うーん」と唸る。
「どんなってのも難しいけどな。えっと……緑色で、これくらいの大きさで、いぼいぼしていて。」
「……。」
「食うと青くさいっていうか、苦いっていうか、でもそれが美味くて。」
「……。」
とつとつと説明する将臣。知盛は分かっているのか分かっていないのか、無言で正面を見据えたまま微動だにしない。
風がゆっくりと知盛の髪を揺らして吹く。
将臣は眉間にしわを寄せたまま、もう一度「うーん」と唸った。
「……とにかく、酒によく合うんだよな……酒にな。」
「……酒か。」
知盛は淡々と将臣の言葉を低く繰り返した。
「……。」
そして音もなく立ち上がり。
「……酒だ。」
部屋の隅に転がしてあった酒杯を将臣に投げつける。
そして自らは大きな徳利を引き寄せて。
「……まぁ、確かに酒だな。」
苦笑する将臣の杯になみなみと気に入りの酒を注ぐ。
別に気を遣ってやっているわけじゃない。
だが、辛気くさい顔をされるのも鬱陶しい。
心にそんな言い訳をしながら、知盛は無表情に将臣の杯を満たした。
「って、結局、ゴーヤはスルーなわけな……。」
知盛に聞こえないように呟いた将臣の声は、諦めではなく喜びの音に聞こえて。
五月の風が屋敷を黄昏の色に染めてゆく。
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