ここにいるよ〜峰篇。




 放課後。
 昇降口からは、下校する生徒たちの笑い声が聞こえてくる。
 着替えは終わった。テニスコートの整備も終わった。もう、いつでも部活が始められる。そんな状態で、不動峰テニス部の良い子たちは待っていた。彼らの部長が姿を見せることを。
 グラウンドの隅に座り込めば、大地に色濃い影が落ちる。そんな陽射しを避けもせず、六人はぼんやりとただ待っていた。

「まだ六月だろう?」
 神尾が誰に言うともなく口にすれば。
「結構、準備とかに時間かかるもんなんじゃねぇのか?」
 おっとりと答える石田。
「そりゃそうだろうけどよぅ。」
 そこまで言って、神尾はまた口を閉ざし、そしてうつむいた。

「今日は終礼で卒業アルバムの企画を考えるとか何とか言っていたから、部活遅れるかもしれない。準備して待っていてくれ。終わり次第、駆けつけるから。」
 朝、確かに橘はそう言っていた。
 卒業アルバム。
 頭では分かっている。橘さんは来年の三月、間違いなくこの学校を卒業していく。いや、もし卒業できなかったら、そりゃ大変なことだ。橘さんと同じ学年になるなんて恐れ多いから、俺たちは全員留年だ。神尾や内村は良い。留年するくらい簡単だろう。だが、成績の悪くない森あたりは、留年するのだってきっと一苦労だ。
 ゆっくりと全員の顔を見回して、桜井は小さく息をつく。
 だから。
 だから、間違いなく橘さんは卒業していくんだ。
 いや、来年の三月を待つまでもない。
 この夏が終わったら、俺たちは橘さんなしでやっていかなくてはいけない。

「……来年の今頃、俺たちどうしてるのかな。」
 森のつぶやきに、うつむいていた一同がゆっくりと顔を上げる。
 橘さんがいない部活なんて、もう想像できないけども、それでも不動峰テニス部の歴史は続いていく。続けていかなくてはいけない。俺たちに「テニス」をさせてくれた橘さんのためにも。

「来年の標語とか、考えておくか。」
 冗談めかして応じた桜井に、思いの外に真剣な眼差しが返ってきて。
「いいかもな。標語。」
 なんだかすっかり、橘の不在にうちひしがれていた良い子たちは、それでも一生懸命来年のことを考え始めた。
 グラウンドの向こうでは、野球部のコーチの叫び声がする。

「どんなのがいいかなぁ。」
 勢いで、柄にもなく頭を使ってみる不動峰の良い子たち。
「そうだなぁ。……『気合い』とか?」
 言い出しっぺの責任を感じてか、桜井がまず口を開く。
 強い陽差しが、内村の帽子に更に深い影を落とす。

「『気合い』かぁ。」
 応じたのは森で。少しだけ照れくさそうに、言葉に困っていたが。
「『一生懸命』とかはダメ?」
 と、小さく笑って尋ねた。

「なんかベタだよね。桜井も森も。恥ずかしくないわけ?」
 それまで黙っていた伊武が、うつむいたまま、ぼそぼそとぼやき始めたので、周りの良い子達はぎょっとしたが。
「文句あんなら、深司も何か言えよ。」
 神尾が横から真っ当なツッコミをかましたので。
「……なんだよ。神尾のくせに。」
 などと毒づきながらも、伊武はぼやくのを中断し。

「……『意地』……。」
 一言だけ、ぼそっと呟いた。

「『意地』ってさ、深司っぽいっと言ったら、深司っぽいけど。」
 にへっと笑って神尾が伊武の頭を撫でたのは、きっと、伊武の選んだ言葉も、桜井や森のそれと大差ない「気持ち」だったからで。
 もちろん、神尾の手は、すぐに邪険に振り払われたし、振り払った伊武だって、自分が言った言葉がどう思われたか、分かっていたのだろう。それ以上ぼやきもせずに黙った。
 結局、みんな、分かっている。自分たちが共有するのは、そういう泥臭い青臭い「気持ち」なんだっていうコト。それがあるから、不動峰の仲間達は夏でも真っ黒なユニフォームを着ちゃうんだってコト。

「そうだな〜。ちょっと路線変えて、『情熱』とかどうだ?!」
 神尾が嬉しそうに提案する。
 結局、似たようなモノだけどな。
 口の中で言い訳めいた言葉を続けながら、神尾は笑った。

「もう少しクールに行こうぜ。」
 興味なさそうに沈黙を守っていた内村が、帽子を深くかぶり直して、低く主張する。蒸し暑い風が吹いて、伊武の髪を揺らした。
「クールってどんなんだよ。」
 案の定食らいつく神尾に。
 面倒くさそうに内村は視線を送り。

「そうだな。……『強気』みたいなやつ。」
 結局、あんまりクールではない言葉を選ぶ。こういう意志の強さが、良くも悪くも不動峰の特徴なんだよな、と桜井は少し納得した。それから。
 こいつらは来年だってきっと平気だ。
 と気づき、ちょっとだけ安心する。そうだ。こいつらとだったら、絶対に来年だって乗り切ってみせる。それで、みんなで橘さんの通う高校に行くんだ。

「でもさ。」
 そのまま黙り込んだ内村の言葉を継ぐように。
「『強気』も結構熱い感じするんだけど。」
 石田が額の汗をぬぐいながら、にこにこと会話に参戦する。
「俺は好きだけどね。『強気』って言葉。……そうだな。『気迫』とかも良いよな。」

 グラウンドに目を向けたまま、隅っこに座り込んで、来年の標語など、つらつら考えて。
 陽差しはじりじりと彼らの肌に照りつける。
 とはいえ、もう時刻は四時近く、気が付けば光は西日の色を帯びて。

 彼らの背後で。
 がさりと深い足音が聞こえ。

「俺も仲間に入って良いか?」
 聞き慣れた、そして待ちこがれた低い声が、彼らの耳をくすぐる。

『た、橘さん?!』

 き、聞かれていた?!今の話、全部聞かれていた?!
 桜井は焦った。来年の、橘のいなくなった先の話をしていたなど……もちろんそれは間違いなく来る現実なのだけれども。そんな話、橘に聞かれたくはない。まるで、橘の引退後を楽しみにしているみたいじゃないか。そんなの。

「い、いつからそこに……。」
 森が動揺したように尋ねれば、さもおかしそうに笑って、橘が応じる。
「桜井が『気迫』とか言ってた辺りから聞いてた。」
 最初からじゃないか。桜井は軽い目眩を感じて、額を抑えた。

「で、俺も入って良いのか?」
 もう一度、橘が愉快そうに尋ねて。
 断る理由も見つからず、視線を合わせてしまった石田が、おずおずと頷けば。
「……そうだな。なら。」
 橘が重々しく口を開く。

「……『クマノミ』にするか。」

 クマノミ……??

 リアクションに窮したのは、桜井だけではなかった。誰も動けなかった。
 クマノミ?来年の標語はクマノミ??
 クマノミってなんだっけ?魚?クマ?クマの実?えっと。えっと。

 そのとき、森がそっと桜井の脇腹を小突いた。
「次、桜井。」
「え?」
 森の口が小さく動く。
 し、り、と、り!

 しりとり?
 桜井と同時に、みながはっとする。そうか。
 気合い→一生懸命→意地→情熱→強気→気迫→クマノミ
 しりとりだ!!

「……やんなっちゃうよな。お前から始まって、橘さんで一周したんだから、次はまたお前だろ?桜井、お前、しりとりのルールも知らないの?ばかなんじゃない?信じられないよな。」
 伊武がぼやき始めたのは、たぶん、フォローのつもりだったんだろう。
 桜井は珍しく伊武のぼやきに感謝しながら。
「えっと、えっと、『ミジンコ』……?」
 ようやく「み」から始まる言葉を思い出す。

 そうだよな。良いんだ。あんまり難しいコトなんて、考えなくても。
 目標なんか決めなくても、みんな同じトコにいる。同じトコを目指している。
 だから。
 だから、今は、良いんだ。こうやって、部活前にのんびりと、しりとりとかしながら。
 もう少し、橘さんの後輩のままでいよう。
 桜井は、沸き上がる笑いを堪えきれずに、小さく「ふふ」と笑みを漏らした。








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