夏休みが目前に迫る土曜日のこと。
樹影は深く濃く大地に映り、吹き抜けるのは蒸すような風ばかり、それでもその熱風さえも涼しく感じられる。そんなうだるような暑さの中。
さんさんと照りつける陽差しに射られて、コートを駆けずり回った河村や不二らは、「休憩!」の声と同時に、木陰に座り込んだ。
「不二!タカさん!」
「疲れた!」と感じる機能が欠落しているんじゃないかと、時折不安になるくらい元気いっぱいの菊丸英二が、木陰で座り込む不二と河村にじゃれついてくる。隣の木の根本に座り込んでいた大石は、これからの練習を前に、少しでも充電しておいてくれよと思いつつも、気分転換にはしゃぐのも英二にとって大事なことかもしれないな、と黙っていることにした。
菊丸の声に、ゆっくりと二人が振り返り。
「どうしたのさ?英二。」
ドリンクに口を付けていた不二が、小首をかしげてみせる。
「あのさ〜。青学七不思議って知ってる?」
「う、うん。」
「知ってるけど。」
唐突な菊丸の発問。河村はためらいがちに、不二は不思議そうに肯定して。
「七つ、全部言える?」
二人の肯定に、菊丸はポケットから小さいメモ帳を取り出した。
「何?乾のまねしてデータ集めてるの?」
からかうように笑う不二。不満げに菊丸は舌を出し。
「残念でした!俺、これ、夏休みの自由研究にすんの。」
堂々と胸を張った。
それって、夏休みの自由研究のテーマとしてありなのかな……。大石は少しだけ疑問に思ったが、友達にアンケートをとったりして、データを集計するんでもいいとか、先生言ってたっけと思い起こし、黙っていることにした。
七不思議……確かにいろいろ聞くけど……。
ぼーっとした頭で、何とか七不思議を思い出そうとして、もつれた糸を追う大石の横で、河村が口を開く。
「七不思議って……音楽室の話もそうだよね?」
不二も続けて。
「ああ。そうだね。夜になると誰もいない音楽室から『猫踏んじゃった』が聞こえるんだっけ。」
確かにそれは聞いたことがある。誰から聞いた話だっけ、などと、大石はぼんやり思いを巡らせる。
「そうそう。それ有名だよね!」
菊丸は元気にうなずいて。
「ホント、不思議な話だよな!!なんで毎晩『猫踏んじゃった』なんだろうな!」
とのたまった。
「……そうだねぇ。ショパンとかリストとかでも良いのにねぇ。」
一瞬の間の後、不二が優しく相づちを打ち。
「……あんまりピアノが得意じゃないんじゃないかな。その人。だから、簡単な曲で練習しているのかも。」
河村が、会ったこともない「その人」のために、懸命にフォローを入れた。
「そっかぁ。それにしたって不思議だよな。なんで夜ばっかりなんだろ。夜じゃなくてもいいのにな。」
菊丸はまだ解せないといった調子で言葉を紡ぐ。えっと。そこが不思議なんだっけかな?と、大石はぼんやり考えたが、よく分からなかったので、額の汗をぬぐいつつ、黙っていることにした。
「後は、なんだっけ。理科室の話もあったよね。タカさん。」
「夜になると、静まりかえった理科室で骨格標本が踊り出すってやつ?」
何をメモしているのか知らないが、菊丸はせっせと何かをメモしている。どんな自由研究にするつもりなんだろう……。大石は人ごとながら気になって仕方なかった。
「それも結構有名だよな。中一のとき、先輩に聞いたんだけど、マジで不思議。なんで静かなとこで踊るんだろう?」
またしても菊丸が真顔でのたまうので。
「……音楽かかってる方が踊りやすそうだけどね。」
一瞬の間の後、不二が穏やかに同意し。
「……音楽室に行ったら、あの人が『猫踏んじゃった』を弾いてくれるから、一緒に楽しめばいいのにね。」
河村も、よく知らない「あの人」に伴奏を頼むことを提案してみた。
「そっか。そうだよね。音楽室に行けば良いんだよね!それにしたって、不思議だよなぁ。なんで夜に踊るんだろ。みんなが見てる明るいとこで踊った方が、絶対楽しいのに!」
菊丸の鼻息が荒い。大石は、七不思議って怪談の類じゃなかったっけ?ただ不思議なできごとを並べるものだっけ?と軽く疑問に思ったが、とりあえず黙っていることにした。
不二と河村は顔を見合わせ、しばらく何か考えている様子だったが、諦めたのか、話を先に進める。
「体育館の用具置き場から、夜になると声がするって話もあったよね。」
「野球部のボールを数える声がするってやつだね。一つ、二つ、三つ……って数えて、結局一個足りないって泣くとかいうの。」
ああ。そういや、それも有名かな。肝試しのシーズンが近づくと、必ず誰かが言い出すんだ。ふぅっと大石は息を吐き出した。
「それって、部活でボールなくしていびられた中一の怨念なんだっけ?」
と、菊丸。
具体的な内容を思い出すと、なんだか生々しい気がしてきて、大石はそっと中一の方に目をやった。だが、どうもテニス部の中一はそんな雰囲気でもない。第一、上級生に中一をいびるようなやつもいないだろうし。多少、いざこざはあるかもしれないけど、あまり陰険なことはしそうにないし。中一の方が、したたかそうだもんな。むしろな。
そんなことを考えながら視線を彷徨わせた大石の横で、菊丸は俄然、大まじめに。
「でもさ、野球部も気が利かないよな!ボール足りないって毎晩泣いてるの、分かってんだったら、1個増やしてやれば良いのに!!そしたら、そいつ満足するんだろ?」
義憤に燃えてそうのたまうので。
「……そうだね。足りるって分かったら、きっと満足するよね。」
不二はいまいち納得できていない様子ではあったが、一応相づちを打ち。
「……っていうか、いつも、本当にボール1個足りない状態なのかな?野球部って。」
不思議そうに河村が首をかしげた。
「そうだよね!そこも不思議なとこだよな。なんでいつも1個だけ足りないのか!うーん。ホント、すごい不思議だなぁ。」
不思議がるところはそこで良いんだっけ?ボールが足りないってとこが不思議なんだっけ……?大石はちょっと分からなくなって、もう一度、額の汗をぬぐい、しばらく考え込んでみたものの、やはり黙っていることにした。
「えっとさ。旧校舎の無限トイレって、七不思議に入ってたっけ?」
「そんなのもあったね!良く覚えてたね。タカさん!」
不二がぽんと膝を打つ。なんだっけ。無限トイレって……旧校舎の奥の方にあった、薄暗い女子トイレだっけ。大石もぼんやりとおぼろげな記憶を引っ張り出す。
「確か、そのトイレ、細長い作りになってて、両側に個室が並んでるんだよね。で、個室の並んでいる一番奥の壁に、大きな鏡が付いていてさ。」
「そうそう。それで、トイレがすごく奥まで続いているように見えるんだっけ。」
「奥までっていうか、無限に続いているように見えるんじゃない?で、丑三つ時には鏡の中のトイレにも行かれるようになるんだよ。」
「それで戻ってこられないとかだよね?なんか怖いな。」
旧校舎なんて、もう、取り壊して何年も経っているはずだけど、まだ噂だけは残っていて。在校生が誰も見たことのないような怪談スポットが、いまだに有名だなんて、なんだかすごいなぁ、と大石はほのぼの考えたが。菊丸はうーんと、うなって天を仰いだ。
むっとするような、熱い風が吹く。
「なんで帰ってこられないなんて分かるんだろ?誰が確認したのかな?」
菊丸が真顔で疑問を呈するので。
「……トイレ行ったまま帰ってこなかった人がいたのかなぁ。」
不安げに河村が不二の顔をのぞき込み。
「……だとしたら、その人、そのまま鏡の中に住んでるのかな。まぁ、ちょっと見方を変えたら、こっちが鏡の中で、あっちが鏡の外なのかもしれないけど。」
フォローなのか、さらなる怪談なのか分からない口調で、不二が答える。
菊丸も、ふむふむと激しくうなずいて。
「やっぱり不思議だよな!その話!だいたい、なんで夜中に学校のトイレに行くんだろうな。」
そう言いながら、メモに何かを書き加えた。
ほかにもっと不思議に思うべき部分はないのか……?大石は何かもっと大事なとこがあるような気がして仕方なかったが、それがなんだかよく分からなかったので、暑さのせいで混乱しているのかなと思いつつ、黙っていることにした。
「それから……2年8組の掃除用具入れの話?」
と、不二。
「え?何?俺、それ知らない。」
少し驚いたように河村が応じ。
「ん。2年8組の不思議はタカさんは知らないっと。」
小さくつぶやいて、菊丸が何かをメモした。
大石もその話は記憶がなかった。なかなか話し出さない不二に、河村が困ったように視線を送る。そんな話したくないような怖い話なのかな……?大石と河村の不安を察したのか、不二が渋々口を開く。
「2年8組の掃除用具入れは、夜になると異次元につながって、何とかっていう異世界の人たちの一大観光スポットなんだっていう話。聞いたことない?」
そして、ちょっと脱力気味に笑って。
なんだ、そりゃ。大石も大いに脱力し、その話、たぶん桃城あたりが勝手に作ったんじゃないのか、と思ったが、証拠もなしに後輩を疑うなんていけないことかもしれない、と思い直した。
「それ、知らないやつが多いみたいなんだけど、俺も聞いたことあんだよね。なんだっけ。ヌアクショット人……だっけ?」
ん?と大石は違和感を覚えた。何だっけ。何かおかしいんだけど。
しかし、菊丸は大石の違和感など気づきもせずに、懸命に何かをメモしつつ、真顔で。
「その異次元の人たち、掃除用具入れなんか見て、どうするんだろうな。ってか、なんで2年8組なんだろう。3年6組でも良いのに。」
と不思議がる。
「……確かにどの教室だって、掃除用具入れなんて同じようなモノだよね。」
少しの間をおいて、不二が笑いをこらえるように答えると、河村も。
「……どっちにしても、掃除用具入れは観光に向かないね。」
ちょっと困ったように笑った。
「そうだよねぇ!どうせ観光するならもっと楽しいとこ見れば良いのに!それに、夜ばっかりじゃなくて、昼間も来てくれたら良いのにね。なんで夜なんだろう。不思議だなぁ。」
憮然とした様子で不思議がる菊丸に、不二がにこにこと何度もうなずく。
ああ。そうか。ヌアクショットはモーリタニアの首都じゃなかったっけ?と、大石は自分の感じた違和感の正体に気づいた。異世界人の名前としては、なんかおかしくないか……?しかし、もしかしたらそんな名前の異世界人もいるのかもしれないし、会ったことのない彼らの存在をいきなり否定しては失礼かもしれない。そう思って、大石はまだ見ぬ異世界人への敬意と友愛の情を胸に、とりあえず黙っていることにした。
「僕はこれ以上知らないけど、後は?」
「俺ももう知らないな。」
ネタが尽きたらしい二人が、顔を見合わせて。
「えっと、今までので5つかな。」
「そうだね。あと2つ足りないのか。」
指を折り、自分たちの思い出した七不思議を数え直す。
湿気の強い暑い空気は、土の匂いに満ちていた。
「あとはね、手塚に聞いたんだけど。」
ちょっと誇らしげに菊丸が手帳をめくり。
「『青学の不思議なところか。俺にはどうして青春学園などという学校の名前を付けたのか、分からない。これは不思議ではないか?』だってさ。これで6つ目だろ?」
とメモを読み上げた。
「……まぁ、確かにそれも不思議なところではあるよね。」
笑ってしまい、俯いたまま答えられない不二に代わって、河村が懸命に相づちを打ち。
「……僕には手塚のリアクションが不思議だよ……。」
菊丸に聞こえないくらいの低い声で、不二がつぶやいているのが、大石の耳には届いた。
英二はいったいどんな質問をしたんだろう……。大石は額を抑えて、何か言うべき言葉があるのではないかと探したが、熱風の中で良い言葉が見つからず。
仕方なく黙っていることにした。
「でね、これで6つだろ?ほかに知らない?」
菊丸は何度もメモをぱらぱらめくるが、二人はそろって知らないと答え。
「大石〜。知らない?」
すぐ横で聞いていた大石にも話を振るが、大石もこれ以上の七不思議を思いつかず、そっと首を振る。
「そうなんだよな〜。誰に聞いてもこの6つ以上は出てこないんだよな。」
なんとも釈然としないといった表情で、菊丸はメモを前に、むーっと頬をふくらませた。
熱風に木々がざわざわと鳴る。
陽射しが葉の隙間からまっすぐに差し込んでくる。
「……英二。」
ふと開眼した不二が。
「七不思議なのに6つしかないってのは、七不思議に入らない?」
そう言うので。
菊丸は目を見開き。
「それだ!」
と、いたく納得したように何度も瞬きを繰り返した。
「そうか!それが七不思議の最後の1つか!」
しかし。
「でも不二。6つしかないってのを七不思議に数えたら、7つあるよ?」
河村がおっとりと指折り数えながらつぶやいて。
かさり、と、大きな葉が大地に落ちて。
「……6つしかない七不思議が7つある……不思議だ……!」
つくづくと菊丸がうなるのを聞きながら、大石は、七不思議なんて名前にするからいけないんじゃないだろうか、と気づいてしまって、ちょっと困った。「青学七不思議」ならさまになるけど、「青学不思議」じゃ、青学が不思議な学校みたいだもんな。そう思いながら、それもあながち間違ってないかも、と考えて。
大石は、突き抜けるような真夏の蒼天を見上げ。
とりあえず黙っていることにした。
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