部活の終了と同時に、千石が決定事項のように言い放ったのは、たぶん、四月最初の月曜日のこと。
「じゃ、そういうわけで、行きましょうか。南部長!」
そういうわけでも、行きましょうかも、さっぱり文脈が分からないまま、南は露骨に嫌な顔をして。
「とっとと着替えろ。部室閉めるぞ。」
謎の話題をスルーしようとした。だが、南の言葉を了承の意味で理解したらしい、お気楽な千石清純は、にたにたと上機嫌な笑みを浮かべて、素直に着替えを始める。一緒に行くって言ったわけじゃないんだぞ、と、断っておこうかおくまいか、ちょっと迷ったものの、早く部室の戸締まりをしたい一心で、南は発言を控えておくコトにした。
まだ、中一は部活に入っていない。見学に来る小さい少年達を見ていると、本当に二年の間に人間でかくなるモノだ、と、南は正直感心する。二年前、自分が憧れたあの大きな先輩達のように、あの子達の目には、自分も大きく見えているんだろうか。先輩たちは背だけじゃなくて、全部が大きく見えた。自分は、自分たちは、どうだろうか。や、ってか、俺、地味だから、大きく見えるか以前に、見えているかが心配だ。
部長としてのシゴトはそつなくこなしていると思う。伴田先生からも怒られていないし、怒られているのはいつも千石だし。他の部員達から文句も言われていないし、文句を言うのはいつも千石だし。
……。
南はちょっとだけ、千石のお気楽な背中を凝視してみた。
だが。
「ラッキー♪ラッキー♪今日もラッキー♪」
謎の歌を歌いつつ、上機嫌に着替える千石を見ていると、なんだかもうどうでもいい気がしてくる。
そして、南も着替えを始めた。
「こっち!こっち!」
どこかに一緒に行く約束など、していないのに、あっさりと千石の勢いに負けてしまって、南は下校のルートと逆の方向に引きずられていた。
「おい。寄り道しちゃダメだろうが!」
「良いじゃん。南ってば、真面目すぎ!南はさ、分かってないんだよ。」
「何がだ?」
夕方。
空はまだ夜の色ではなかったが、もう、薄闇が辺りを覆っていて。
時折吹く春一番の名残のような強い風は、夕方の涼しさよりも、春の温んだ空気をそのままに吹いて寄せる。
あちこちの庭には、桜の残花。もう、花の季節はお終いに近くて。
「南は……寄り道してもさ。」
袖を引いてぐいぐい歩いていた千石が、唐突に振り返り。
「ん?」
「絶対、部長に怒られないだろ?」
「……まぁな。」
確かにそれはそうに違いない。自分で自分を部室に呼び出して、説教するほどの物好きでもない。
だが。
だから寄り道しても良い、というのは、何か間違っている気がした。
そのとき、春の突風が駆け抜けて。
南の頭に、ぽすっと、何かが落ちてくる。
「……?」
立ち止まり、自分の頭上にそっと手を伸ばして摘み上げてみれば、それは花弁が一枚だけ残った桜の花で。
「ガクごと落ちてきたのかよ。」
鳥が蜜を飲んだりすると、ガクの付け根が弱くなって、ガクごと花が堕ちるコトがあるらしい。そんな昔聞いた話を思い出しながら、南はその花を手のひらに乗せ、捨てるに忍びなくて、そのまままた歩き出す。
千石は南の手に乗る小さな一弁の花を見て。
「落ちてきた花びらが手のひらに乗るとラッキーって話、あるよね。」
「そういや、そんな話もあったっけか。」
だんだんと空が墨色に染まっていく。上空には丸すぎず細すぎない、ほどほどの月が掛かっていた。
「で、どこ行く気だよ。」
もう、千石は南の袖を引いていない。目的地を知らないまま、千石のお散歩にいつまでも付き合ってやるほど優しい南でもなく。
「ん、次の角曲がってすぐ。」
そんな南の不審を分かって気遣うような千石でもなく。
そして、次の角を曲がれば。
小さな公園には、一本、満開の八重桜。
「おお!ラッキー!満開だったね!」
にたにたと嬉しそうに頷く千石も、今日が満開と知って、南を連れてきたわけではないようだが。
ソメイヨシノよりも少し開花が遅い八重桜の老木の前に、南は声もなく。
花の間に、淡く欠けた月。
「こんなにきれいだとさ、ロマンチックな気分になってさ、ついつい夜逃げしたくなるよね〜。」
「夜逃げ??」
「お願い!南を連れて逃げて!清純さん!!ってやつ?」
「……それは夜逃げじゃなくて、駆け落ちだろうが!ってか、なんで俺がお前と逃げなきゃいけないんだよ!!」
空いている左手で、千石の頭をがつんと小突く。
自称ロマンチストな千石清純は、一般人である南にとって、理解を超えたイキモノである。だが一つだけ確かなコトは。ロマンの意味、なんか勘違いしてるだろ、お前、というコトである。
「ロマンが足りないよ!!南くん!!」
「そんなんがロマンなら、俺はロマンは要らねぇよ!!」
突風。
そして、吹雪という言葉に相応しい、桜吹雪。
「や〜、それにしても、満開ってのはすごいね。桜はすごいね。」
「……ああ。」
さっきまでの夜逃げドリームをあっさり捨てたらしい千石が、大人しく桜に目をやって、しみじみと呟く。
そうだ。そうやって素直に桜を見ていてくれ。
ちょっとだけ、強引に花見に連れ出してくれた千石に感謝しながら、南も目を上げた。古木の下、降り積もった花弁を踏んで、静かに見上げる桜月夜。
「こんなにきれいだとさ、うっとりしちゃってさ、ついうっかり、よだれが出そうになるよね〜。」
「よだれ??」
「桜って、桜餅色じゃない?!」
「……桜餅が桜色なんだろうが!!ってか、なんで桜見て、よだれが出るんだ!お前は!!」
空いている左手で、千石の額をびしっと小突く。
自称クレバーな千石清純は、一般人である南にとって、理解を超えたイキモノである。だが一つだけ確かなコトは。クレバーの意味を分かっていないだろ、お前、というコトである。
「もう!南くんってば、花より団子って言葉、知らないの?!」
「褒め言葉じゃねぇんだぞ?それ!!」
それでも、こんな満開の桜に出逢えば、心は和むもので。
ゆっくりと流れる薄雲と、おぼろに霞む月と。
千石がごくりと唾を飲む。
本気でよだれ垂れそうなのか?!こいつ?!と、南が少しどきどきしていたとき。
ゆっくりと、千石が口を開く。
「こんなにきれいだとさ、一面の花びらに圧倒されてさ、ついうっかり、花占いやりたくなるよね〜。」
「花占い?!」
「こんだけたくさん花びらあったら、すごい花占いになるよね〜。絶対、すごい正確な結果が出ると思うよ!!」
「……好き、嫌い、好き、嫌い、ってんで、この木一本分の花びら、全部むしるつもりか?!ってか、途中でどんどん花びら落ちるだろうが!!」
空いている左手で、千石の背中をどつく。
自称ラッキーな千石清純は、一般人である南にとって、理解を超えたイキモノである。だが一つだけ確かなコトは。こいつは自分で言うほどにはラッキーじゃなくて、ホントは努力と実力でここまで来たんだ、というコトで。
「なんだよ。南くん。占いをばかにしちゃダメだぞ!」
占いをチェックするのだって、きっと彼流の努力の一面で。
「何、占うんだよ。」
千石を見ず、桜を見上げたまま、南が問いかければ。
「うーん?今年の山吹が……悔いのない戦いができるか、とか?」
千石も、南を見ず、ゆっくりと答える。
ゆらりと、木を揺らして、八重の花びらを散らして、風が吹き抜けてゆく。
できる、できない、できる、できない……
空を舞う花びらを目で追いながら、南は小さく息を吐いた。
「そんなん。」
南は軽く握っていた右手を開く。手の中にはさっき自分の頭に降ってきた小さな落花。
「これでやったって、占いの結果は同じだろうがよ。」
千石の手のひらに、一弁の桜をそっと乗せて。
「とっとと帰るぞ。」
照れ隠しのようにぶっきらぼうに言い放ち、くるりと踵を返して歩き出した。
空にはおぼろ月。そして満開の八重桜。
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