幸福の若白髪〜峰篇。





 神尾は苦悩していた。
 朝から苦悩していた。
 基本的に、三歩歩けば悩みなど忘れる質だったし、五歩歩けばリズムに乗ってしまい、七歩も歩けば脳内は空っぽになるタイプなのだが。
 なんと神尾は放課後になるまで苦悩し続けたのである。
 それほどまでに、彼にとって重大な問題が心を占めていた。

「アキラ……どうしたの?」
 初夏の風は緑の薫りを密かにはらんで、窓からそっと吹き込んでくる。
 部室に向かう廊下で、不安げに森は俯く神尾の顔をのぞきこみ。
「お腹痛い?それとも追試?」
 心から心配そうに、小さな声で問いかける。ちょっとびっくりしたように目を上げた神尾は、首を振って。
「違うよ。別にお腹は痛くないし、追試は来週だし。」
 追試だったのは違わなかったらしいが、悩みの原因は追試ではなかった。森はまた少し首をかしげ。
「じゃあ……どうしたんだよ?」
 神尾の悩みなんて他に思いつかない。困ったように尋ねれば。
「あのさ。俺の悩みって腹痛と追試以外、ないわけ?」
 さすがの神尾も苦笑いながら、ようやくいつもの笑顔を見せた。

 関東大会はもうすぐ。
 嬉しくて踊り出したいような心と、不安で目を瞑ってしまいたい気持ちと。
 その二つを抱いて、彼らは朝夕、精一杯の練習を繰り返す。
 本当のテニスをさせてくれた大切な先輩に、少しでも恩返しをするため。
 その先輩と少しでも長い時間、テニス部での日々を共有するため。

 部室にはもう、仲間達が集まっていた。聞き慣れた声が飛び交っている。
 神尾は勢いよく扉を開きながら、森を振り返らずに言う。
「今朝……俺、見ちゃったんだよ。」
「ん?何を?」
「……橘さんの……。」
「……橘さんの何をさ?」
 神尾が何を目撃したかなど、大して興味を持っていなかった面々が、一斉に振り返る。
 橘さんの何を見たって?!
 がさりっと、乱暴に鞄をロッカーに押し込むと。
 注目を浴びていることに気付いた様子もなく、神尾は少し俯き加減に、着替えを始めながら。

「あのさ。橘さんのこの辺の髪ん中にさ……一本。」

 自分の側頭部を指先でとんとんと突く。
 橘さんに……白髪が……?
 部室はしんと静まりかえった。

「……橘さん、俺たちのせいで……すげぇ苦労しているし……やっぱ、それって、俺たちの……せいだよな?」

 神尾は目を上げない。ただ、淡々と言葉を紡ぎながら、リズムにも乗らずに制服のボタンを外していく。

「アキラ……。」
 声を掛ける森も、何か適切な言葉が思いつかず、名前を呼ぶだけしかできず。
 着替えが終わっていた内村は帽子を深くかぶりなおし、桜井は髪を手ぐしで軽く整えながら、沈黙を守った。
「俺……思うんだけど。」
 一分、あるいは三十秒くらいだったかもしれない。部室を包み込んだ静寂を打ち破り、神尾が口を開く。

「橘さん……忙しいし……。」
 伏し目がちに神尾が言葉を選ぶ。
「そのままでも……かっこいいのにな……。」
 石田は困惑したように、桜井に目をやったが、桜井は小さく首を振るのみだった。
 周囲があまり分かってないと察したのだろう。神尾が唐突にみなを振り返り。

「九州時代の写真、見せてもらっただろ?橘さんの地毛の写真!金髪のやつ!」

 どごっ。
 神尾の顔面に空のラケットバッグが激突する。
「深司!痛ぇな!何するんだよ!ばかになるだろ!!」
「それ以上ばかになるはずないから、安心しろよ。アキラ。だいたいありえないだろ。橘さんの地毛が金髪なんて。あんな日本男児を絵に描いたような、大和魂の持ち主が金髪なんて。お前、やっぱりばかだよね。信じられないな。ぼそぼそ……」
 伊武のぼやきスイッチが入ってしまった。森はどきどきしながら、そっと内村の影に隠れようとした。だけど、正直に言って、伊武の意見に賛成だ、ともどきどきしながらこっそり思った。

「何だよ!かっこいいじゃんか!!金髪の橘さん!!」
 一生懸命、伊武に言い返す神尾。桜井は溜息をつく。
「アキラさ……今まで、橘さんが髪染めてると思ってたわけ?」
「お、おう。」
「黒髪に?」
「おう。」
「んで、最近忙しいから、染め損なったって?」
「おう!」

 ふぅっともう一度大きく桜井が溜息をつく。
「あのな。橘さんは元から黒髪で、九州にいたとき、金髪に染めてたんだろ?」
「……え?」
 神尾は目を見開く。そしてフリーズする。

「……橘さんが……そう言ってたのか?」
「いや。普通、そうだろ?」
「……だって……あの橘さんだぜ?」

 神尾は真顔である。
 急に、桜井は少しだけ不安になってきた。
 確かに橘さんだ。普通じゃないかもしれない。自分たちをここまで引っ張ってきてくれた、あんな偉大な人だしな。
 それに、あの真面目な橘さんのこと。何かあったにしたって、金髪に染めるなんて、あんまり考えられない。むしろ、東京に来たとき、目立たないように髪を黒く染めたと考えた方が自然かも知れない。
 ……もしかしたら……。

 伊武さえもぼやくのをやめて、困惑した様子で桜井を見ている。
 森は一人静かに、一本だけ染め忘れることってあるの?と首をかしげていたが、それを口に出す勇気がなかった。ってか、それ白髪じゃないの?とも思ったのだが、言い出すタイミングが分からなかった。いや、みんな、白髪だとは思ってるんだろうけどさ、アキラのせいで、何が問題か分からなくなって来ちゃってない?とか、少しだけ困ってみたが、まぁとりあえずこの場は桜井に任せよう、と思った。
 そして。
 混乱と沈黙の中。
 神尾は真顔で。
「やっぱ……橘さんは、地毛、金髪なんじゃねぇ?」
 繰り返す。
 一同は、やはり混乱と沈黙の中で。
 ついうっかり。
 そうかもしれない。
 と思ってしまった。

 そのとき。
 ばたりと音を立てて部室の扉が開き、橘が姿を見せる。
「なんだ?誰もコートに出てないから、まだお前ら、終礼終わってないのかと思ったぞ。」
 部室の一番奥に、どさりと鞄を置いて。
「着替え終わったやつは、コートの準備しとけ。」
「はい!」
 弾かれたように扉から駆け出してゆく少年達。
 初夏の陽射しが部室に差し込んでくる。

 彼らは知らない。
 橘は、彼らと過ごすことで生まれる苦労なら、むしろ幸福だと感じているコトを。
 白髪などあろうものなら、むしろそれを誇りに思うだろうコトを。
 そして。
 橘は知らない。
 後輩達が、彼の地毛を金髪だと信じてしまったコトを。

 放課後。
 初夏の風の中。
 橘は駆けだしていった後輩達のはしゃぐ声を聴きながら。
「行くか。」
 大きく伸びをして、まっすぐに歩き出す。
 彼らの待つテニスコートへ。





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いい話なのか。やな話なのか。微妙。