幸福の若白髪〜青学篇。
十分間しかない休み時間に、会いに行ったわけでもなく、部活の友人と出くわすこともある。こちらが移動教室に向かい、あちらが移動教室から帰ってくる。そんなときに。
「あれ?乾。」
「ああ。不二か。」
挨拶の代わりに互いの名を呼んで。
そのまま、大した会話もなくすれ違う。
そのはずが。
「ちょっと待って。乾!」
「なんだ?」
長身の乾の後頭部に、不二は一筋の白髪を見いだして。
軽く背伸びをしながら、つんとつまんだ。
「ここにね、白髪があるんだけど。」
「……白髪?」
乾は眼鏡をずりあげ、少し何かを考える素振りを見せた。
しかし、ちょっとだけ身をかがめると。
「悪いが抜いてくれないか。」
おっとりと依頼した。
「良いの?若白髪は幸福を招くって言うのに。」
言いながらも、不二は早速、ぷつっと乾の白髪を抜き、彼の前に回って。
「はい。これが証拠の白髪です。」
と、手渡した。
「ふむ。見事に真っ白だな。目立っていたか?」
「ちょっとね。」
「ありがとう。不二。こんなモノを見られたら、俺が苦労人だと誤解されそうでいけない。」
乾は真顔でしばらく白髪を眺め、それをそのままペンケースに収めた。
「ふふ。乾は努力とか苦労とか、人に悟られたくない質だよね。」
廊下の窓からは校庭が見える。昼日中の柔らかい陽射しに、次の授業が体育なのか、ぱらぱらと数名の少年達が駆けだしてきた。
「周りが天才ばかりだと、見栄も張りたくなるものさ。」
嫌味でもなく揶揄するわけでもなく。いつものように淡々と告げると、乾は腕時計に視線を落とし。
「さて。遅刻するわけにも行かないからな。また後で。」
「ああ。またね。」
二人はそれぞれに歩き出す。
チャイムが鳴って、授業が始まって。
そして、いつの間にか、放課後がやってくる。
「不二。考えたんだが。」
いつものように逆光を背負って、乾が不二に歩み寄った。
「何?」
まだ部活が始まる前。身支度だけ調えた不二は、軽くストレッチをしながら、手塚らの合図を待っているところだった。もちろん、何か楽しい話題があるのなら、雑談は大いに歓迎。そんな小さな暇を持て余している時間帯だったのである。
それは乾にしても同じわけで。
どうでも良い話題が、ちょっとした玩具になる。
「痛覚というのは人ごとに違う。だから共通した長い間、基準を設けることができなかった。」
「ああ。それを日本痛覚学会が統一基準を考案して、数値化することに成功したんだっけね。」
「そうだ。鼻毛を抜くときに感じる痛みは、人種・性別・年令を問わず、ほとんど同じレベルであるとの報告が認められて、1センチの鼻毛を抜くときの痛みを1hanageとすることに決定した。」
「うん。覚えているよ。ボクもそのニュースにはうっかり騙されかけたもん。」
不二はにっこりと笑い、菊丸の姿を捜す。
一時期出回ったこのまことしやかなデマは、さまざまな数式やデータが盛り込まれていたために、不二でさえ、一瞬、本当のことかと勘違いしたほどで。もちろん、菊丸などは今でもそれが本当だと信じているはずである。騙されかけたのが悔しかった不二が、徹底的に教え込んだのだから。
だから時折、不二の携帯には菊丸から。
タンスの角に足ぶつけた!5万hanageくらいだった!
などという意味不明のメールが届く。たぶん、菊丸はhanageという言葉を単語登録しているんだろうな、と不二は想像して、小さく笑った。
「まぁ、それはそうと。白髪というのは、苦労すると生えるものなんだろう?」
「と言われているね。」
「ならば。」
楽しそうにノートをシャーペンで軽く叩きながら、乾は提案した。
「白髪が一本生えるくらいの苦労を1shiragaとすることにしたらどうだろう。」
「なるほどね。苦労の量を単位化するわけね。」
そんなことに対する統一基準なんて、今までなかっただろうから。
ちょっと面白いかも知れない、と不二は思った。
「じゃあさ。白髪を一本抜くと、三本生えてくるっていう俗信があるじゃない?」
「そうなのか?」
「そうなんだ。だとしたらさ。白髪を一本抜くときに肉体が受けるストレスは、3shiragaだってことだね?」
「……だとすれば、俺の日々の苦労は、白髪一本抜くときのストレスの三分の一に過ぎないということか。」
複雑な表情で、乾はノートを開いた。何を書き込んでいるのかは分からないが、微妙に凹んだらしい。不二はちょっとだけ可哀想なコトをしたかなと思った。
「でも、単位を考えるのって面白そうだね。」
「うむ。」
「1inuiだったら、データ量の単位かな。」
「1kaidoだったら、ロードワークの量の単位になるとか。」
「そうそう。1tezukaだったら、気むずかしい顔の度合いとかさ。」
「それは測定しにくいが、面白そうだな。1echizenだと、生意気さの単位か。」
目に入る部員の名前を、片っ端から単位にしながら、乾と不二は勝手にいろいろな基準を考案する。
役に立ちそうなもの。さっぱり役に立たなそうなもの。
ただ、想像するだけで面白くて。
だんだん、グラウンドに人影が増えてくる。時計を見れば、そろそろ部活が始まっても良さそうな時間帯。
「ところで、1fujiは何の単位なんだ?不二。」
ふと、今まで話題に上がっていなかった不二の名を単位にしてみる乾。
不二は小首をかしげて、一瞬、口をつぐんだが。
「聞いたコトない?乾。1fujiって。」
とのんびり尋ねた。
「……1fuji……。」
口の中で小さく、乾が反復する。
「あのね。1fujiは、2takaと同じなんだ。要するに、ボク一人分は、タカさん二人分と同じ値になる。」
「……ふむ。で、何の単位なんだ?」
「ふふ。でね。」
手塚が腕時計を見た。大石に声を掛けて、何かを打ち合わせている。もうそろそろ行かなきゃかな、と、不二は乾を振り返り、軽く見上げて笑った。
「3nasubiと言ってね。ボク一人分、タカさん二人分は、なすび三個分と同じなんだよ。」
「……ふむ。で、それは一体、何の……」
「有名な単位だから、覚えておいた方が良いよ?」
大石が「集合!」と叫んでいる。その声と同時に、不二は小走りに集合位置に向かった。
ノートを睨んで、しばらく固まっていた乾は、はっとして集合場所へと急ぐ。
翌日。
教室の机の上に、ナスを三つ並べて、懸命に何かを考えている乾の姿が、見られたとか見られなかったとか。
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