「あああ〜〜〜〜。」
菊丸英二は頭を抱えた。
何が哀しくて、数学なんてものをやらねばならないのか。
人生、算数ができれば困らないと姉ちゃんも言っていた。
全く、中学生というのは不幸な生き物である。
練習後の部室で、数学の課題を解いていたのは、単に分からない問題を周りに教えてもらおう、という魂胆からである。大石や手塚、不二、乾あたりなら、結構遅くまで残っている上に、何を聞いても分かりそうだと思う。しかし、まぁ、ただで教えてくれるのは大石くらいかも知れない。他の連中は、嫌みの一つも覚悟しなくてはならない、だろうけれど。顧問の雷に比べれば、級友の嫌みくらい、可愛いモノである。
それにしても。
「分かんないよ〜〜。なんだよ、因数分解って!」
唐突に暴れ出す菊丸に、びっくりして、越前リョーマが手元のノートを覗き込む。
「何やってるんすか?」
「数学〜〜。見りゃ、分かるだろ〜〜。」
湿度が高い上に、気温も低くない梅雨時の夕方。中学生という生き物は、ただでさえ高性能な発熱体である。換気の悪い部室は、物事を考えるには向いていない熱気によどんでいる。
そして解けない数学。
菊丸の機嫌が良かろうはずもない。
「……なんか、最大公約数みたいなもんっすね。」
教科書を覗き、ノートを眺めた越前の言葉に。
菊丸の脱線回路が全開になった。
「あああ、なんかそういうのあったね!最大公約数と最小公倍数って!!あれって、えっと、どっちが大きいんだっけ?」
「最小公倍数の方が大きいんっすよ。」
「ほぇ?最小なのに?」
「だから〜。公倍数の最小ってことは、倍数で大きくなるでしょ?公約数の最大だったら、約数だから小さくなるわけですよ。」
しばらくの間。
口を開けて、越前の顔に見入っていた菊丸は。
「ふぇ〜〜〜!おちび、あったまいい!!」
と、謎の奇声と共に感激の声を上げた。
そして、ノートも教科書も放りだし、越前の腕を引いて喚き出す。
「大石っ!大石〜〜っ!おちびって頭良いんだよ!!」
部室の端で河村と何かを話しながら、部誌を書いていた大石は、いきなりの菊丸のテンションに苦笑いを浮かべつつ振り返り、尋ねた。
「どうした?」
「すごいの!おちびってね!最大公約数と最小公倍数、どっちが大きいか、分かってるの!!」
その言葉に、河村と大石は一瞬、目を見合わせて、固まった。
しかし、慣れとは偉大なモノで、立ち直るのは早く。
「あの二つは名前がややこしいからね。」
「越前、ずっとアメリカにいたのに、ちゃんと区別付くなんて、偉いな。」
二人は当たり障りのないフォローを入れることに成功した。
「へへっ。おちび、すごいじゃん。」
「はぁ。っていうか、すごいんすか?こんなの。」
越前の問いは、菊丸には届かなかった。救いを求めて視線を泳がせた越前に対し、河村は口を開きかけて、しばらく躊躇し、そのまま再び口を閉ざした。大石にいたっては、肩をすくめて、越前に微笑むだけである。
「ねぇ、ねぇ!不二〜〜!!おちびってすごいんだよ!」
菊丸は、手塚と乾としゃべっている不二のもとへ、越前を引きずってゆく。
越前は、文字通り、引きずられてゆく。
「何?英二。」
「おちびってね!最大公約数と最小公倍数の区別が付くんだよ!!」
「へぇ。」
笑顔で相づちを打ちながら、不二が静かに開眼したのを確かに見た、と乾はその日のノートに記している。しかし菊丸はそんなコトを気にしてはおらず。
「すごいでしょ!」
ほめてほめて!な表情で、小首を傾げる。
期待に満ちたそのまなざしに見据えられたまま、ゆっくりと菊丸の方へ、不二周助は歩みを進め、その人差し指を、菊丸の額にぴしっと当てて。
「それって。英二には区別ができないってこと?」
一瞬にして、部室の湿気が氷結する。
大石と河村は、そのとき、胃薬を持ってきたかどうか、懸命に記憶の糸をたどっていた。
菊丸はといえば。
そのまま、じりじりと後ずさりながら、目を潤ませつつ、叫んだ。
「そ、そ、そ、そんなこと!そんなこと、あるわけないじゃん!」
心なし、声が掠れているのは、もちろん、理由のないことではない。
その言葉に、不二の笑みが深まる。
「そうだよね。そんなこと、あるわけないよね。」
当たり前だよね、と畳みかけるようにつぶやきながら、不二は目を細めて微笑んだ。
少し冷たい人差し指の感触を、額に残したまま、菊丸はまだ後退を続ける。
「そりゃ、いくらなんでも、菊丸を馬鹿にしすぎているぞ、不二。公約数と公倍数なんて、小学六年生の単元だ。数学ですらない、算数だよ。」
明らかに何かを企む声音で乾が眼鏡を光らせると、横で手塚が穏やかに頷いた。
「あんまり菊丸をからかうな。いくら数学が苦手だとしても、そこまでひどくはないだろう。」
越前の陰に隠れながら、さらに後ずさりを続けた菊丸は、ついに大石と河村の後ろに逃げ込むことに成功した。
部室の空気は相変わらず、微妙な緊張感をはらんでいる。
菊丸から解放された越前は、何事もなかったように帰り支度を始めた。
その一方で、大石と河村の陰で涙目になりながらかたかたと震えている菊丸を、温かい目で見守る不二と乾は、しばらくこの新しいネタで楽しめそうだな、と喜びを分かち合っていた。
もちろん、二人は菊丸のことが大好きである。
しかし、大好きだからこそ、面白い遊び、というのも存在する。
「越前さえ分かっているような算数ができない菊丸英二」
さぁ、どうやって遊ぼうか。
不二がゆっくりと乾を振り返り、天使のように微笑んで見せた。
さて、そのころ、手塚部長はといえば。
なぜ菊丸が大石たちの後ろに隠れてしまったのか、理解できぬまま、不二と乾の嬉しそうな気配に、わけもなくうそざむいモノを感じていた。
不二の疑いが根も葉もないモノである以上、もっと堂々としておればいいものを。
真顔で、手塚部長は考えた。
それから。
風邪でもひいただろうか、このひどい悪寒は。
と、冷静に分析しつつ、帰り支度に取りかかる。
もしかしたら、青学テニス部は、部長が天然であるからこそ、なんとかなっているのかもしれない。
偉大な部長の姿に、つい、涙ぐむ河村と大石であった。
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