それは音楽の授業が始まる前のこと。
音楽室でのできごとであった。
学科の教室に比べ、かなり雑然と並べられた机。テニス部の三年生達はその上に腰を下ろし、あるいは机に寄りかかるようにして、何をしゃべるともなくしゃべりながら、チャイムの鳴るまでの数分間を過ごしていた。部活で嫌と言うほど顔をつきあわせる間柄だというのに、気が付くとこんな日常の中でまで一緒にいる。そんな気心の知れた場所が居心地が良い。
何か話題が途切れたところで、机にあごを載せるようにしていた向日が、ふと思い出したように口を開く。
「侑士に聞かれてさぁ、俺、分かんなかったんだけど。」
そう言いながら、向日が両手をぽんと打ち鳴らして。
「手を叩くじゃない?」
「おう。」
もう一度、ぽん。
「ねぇ、今、俺の手、右が鳴った?左が鳴った?」
大まじめに周囲に問いかける向日。
その姿は冗談を言っているようにも見えなかったので、宍戸は閉口し、滝と忍足はにっこりと微笑み、芥川はびっくりして自らも手を打ち鳴らし、跡部は心底憐れむような目で向日を見た。
「あーん?何言ってやがる。」
そして、向日の額を軽く弾く。
「ふざけるのもいい加減にしやがれ。」
落語かなにかのネタであったような気もするけど。
今鳴ったのは、右の手か、左の手か。あててみろ、というような話。
だけど。
それは言葉遊びのようなモノで。
宍戸は、今日ばかりは跡部の意見に賛成だった。下らないコトを真面目に考えているんじゃねぇよ。と。跡部の声に頷こうとした。
ちょうどそのとき。
「なんだよ。跡部のばぁか!お前は分かるのかよ!」
馬鹿にされたと思ったのだろう、向日が悔しそうに言い返す。
「あーん?分かるに決まっているだろうが!」
ちょっと待て。
分かるのか?跡部??
頷きかけた宍戸がフリーズしてしまったことに気付いたのは、滝だけだった。
「じゃあ、あててみろよ!俺の手、どっちが鳴ってる?」
もう一度、両手を合わせ、ぽん!と打ち鳴らす向日。
跡部はきらりと目を光らせて、向日の右手を掴んだ。
「こっちだ。」
「……マジ?」
「俺のインサイトをもってすれば、それくらい簡単に分かる。」
自信満々の跡部に、向日の表情が変わった。
今までのムキになったような目ではなく、素直な感動と尊敬の色を浮かべて。
「すげぇ。跡部って。そんなこと、分かるんだ……!」
「すげぇ!!すげぇ!!やっぱ、跡部、マジすげぇ!!」
芥川も目を輝かせて立ち上がり。
「ね!ね!ね!じゃあ、俺は?!俺は?!」
言いながら、芥川は、勢いよく、手を叩く。
「あーん?当然、左だ。」
見下すわけでもなく、狼狽えるわけでもなく、ただ傲岸に見下ろすその眼差しに、向日と芥川はまた率直な敬意を示す。
「じゃあ!じゃあ、侑士は?!」
「俺か?!」
急に話を振られて、少し驚いた様子で、しかしそれほど動じもせずに。
「ほな、見てもらおか。」
忍足が軽く手を叩く。
「どっちや?跡部?」
向日がこんな話を持ち出したのは、暇つぶしなのかなんなのか、忍足が向日をからかったためなのだろうが。
別に忍足はどちらの手が鳴るか知りたかったわけではないのだろう。ただの言葉遊びだったはずなのだが。
跡部が忍足の右手を軽く掴んで。
「氷帝の天才も落ちたもんだな。鳴る方の手くらい、自覚しておけ!」
と、鼻を鳴らすと。
「俺は右手が鳴っているわけな。」
信じているのかどうかは分からないが、忍足は楽しそうに笑って、自分の右手に目をやった。
「俺も見てー。」
ひっそりと静かに笑っていた滝が、小首をかしげて。
「あーん?叩いてみろ。」
跡部に促され、そっと手を打つ。
「分かる?」
「当たり前だろうが。お前は左だ。しかも、左の中指と人差し指の付け根の辺りだな。」
「へー。そんなコトまで分かるんだー?やるねー。」
音楽室には独特の喧噪がある。
しかし、その日はやけに静かに時が流れていて。
ふと、宍戸は気付いてしまう。
他のメンバーがみな、自分を見ているコトに。
「宍戸。お前も見てやる。叩け。」
まるで親切でもしてくれるかのように、跡部が寛大な笑みを浮かべるので。
ついうっかり、宍戸は。
「あー。あんがとな。」
などと、感謝をしてしまい、間髪入れずに自分の言葉に後悔をしたのだが。
それでも、その場のノリというのは恐ろしいモノで、手を叩かずにはいられない。
ぽん!
「あーん?」
宍戸の打った手の音に。
跡部は首をかしげた。
「おい。もう一度、叩け。」
「何だよ。ちゃんと聞いておけ!」
他の連中にはすぐ答えたのに、自分にだけは答えをくれない跡部。宍戸はなんだか少しだけ癪に触って。
ぽん!
今度はちょっと強く叩いてみる。
「……宍戸。悪い。もう一度だ。」
やけに神妙に跡部が言う。
なんだ……?どうしたんだ……?
今までの傲岸な風情がなくなって、静かな口調になった跡部に少し困惑し、滝の方に目をやって助け船を求めたものの、滝も困ったように首をかしげるだけで。
チャイムが鳴るまで、あと二分。
宍戸はふぅっと小さく息をついて。
「もう一度だけだぞ?」
ぽん!
手を叩くと同時に、跡部の腕が伸び、その合わさった手を、そのまま上からそっと掴んだ。そして。
「……間違いねぇ。」
感動したように、呟く。
「初めてだぜ。宍戸。こんなすげぇ手の叩き方をするやつは……!」
「あー?何だよ?」
跡部の様子がオカシイので、向日も芥川も大人しく、机にあごを載せて話の成り行きを見守っている。
机に座っていた跡部が、組んだ足をすっと下ろして。
「お前の場合な。左手が鳴っているわけでもねぇ。右手が鳴っているわけでもねぇ。」
「どういうコトだよ?さくさく説明しろよ!」
もったいつけたように言う跡部に、宍戸が焦れた。
休み時間はあと1分余り。
よく分からないまま、授業が始まったら嫌だ。気になって仕方がねぇ。
だからといって、授業中までしゃべっているわけにもいかない。
何しろ、次は音楽の授業。榊監督の時間なのだから。いつもにまして、チャイム着席を心がけないといけないのだ。
しかし、跡部は宍戸の両手を掴んだまま、しばらく感動したように黙り込んでいて。焦れた宍戸が舌打ちをすると、跡部はキッと目を上げ。
「お前の手は……鳴っていない。」
呟くように宣言した。
いや。鳴ってるから!
そう言い返すことができなかったのが本当はとても悔しかった、とその日、宍戸は日記に記している。
「良く聞け。宍戸。お前の手拍子は……手が鳴っているのではない。お前の心、お前の魂が鳴っているのだ。魂のメロディ……それがお前の手拍子だ……!」
ちょっと待て……。
宍戸が突っ込む前に。
「すっげぇ!!すっげぇ!!宍戸、すっげぇ!!!!」
「マジ、超かっこE!!!!」
向日と芥川が奇声を上げた。おかげで、宍戸はなんとリアクションして良いのか、分からなくなってしまった。
もう、どうにでもしてくれ。
芥川に左手のひらをぺたぺたと触られ、向日には心臓のある辺りを指で突かれても。
なんだかどうでも良くなってきた。
これは手拍子だろうが! ただ、手を叩いただけだろうが!!
相変わらず、忍足と滝はにこにことしていた。
そこに。
絶妙なタイミングでチャイムが鳴って。
一同はばたばたと席に向かう。
ようやく、あほな遊びから解放されたぜ。激ださだぜ。
自分の席につきながら、宍戸はそっと安堵の溜息をもらした。
しかし。
授業終了後、宍戸は気付いてしまう。跡部が榊に何かを報告しに行っているコトを。そして案の定、榊が宍戸を手招きした。
「来い。宍戸。お前の手拍子を聞かせてみろ。」
跡部のやつ、何を監督に言ったんだよ!と思いつつも。
監督の命令ならば、どんな下らないコトでも絶対である。
諦めた宍戸は、背筋を伸ばし、丁寧に手を重ねた。
ぽん!
あごに手をあてて、そっと目を閉じる榊。その横で、満足そうに宍戸を見やる跡部。
どうでも良いんだけど、どうにかしてくれ。
そう思いつつ、宍戸は二人のリアクションを窺っていたが。
「もう一度、叩いてみろ。宍戸。」
低くささやくような榊の声に促されて。
ぽん!
今度は少しだけ力を入れて、宍戸が手を打つ。監督には逆らえない。仕方がない。
ふっと、肩の力を抜くように、榊が笑った。
冗談で流してくださいよ、監督。頼むから。
宍戸が心の中で哀願していたことに、榊は気付いていたのだろうか。
優しい眼差しを向けて、ゆっくりと口を開く。
「なるほど。見事だ。見事な魂の旋律だ。」
……ちょっと待って下さいよ……!!
「私も未熟だな。こんな才能を見逃していたとは。」
「……はぁ。」
榊は嘘を付かない。下らない冗談など言わない。彼が良いと言えば、それは本当に良いモノであって。彼に認められるコト。それこそが、氷帝テニス部員たちの目標であって。
「宍戸。今までお前の才能に気付かなくてすまなかった。見事な手拍子だったぞ。」
音楽室から出て行く級友のざわめきが遠く聞こえてくる。
そのざわめきをかき消すように、低い深い榊の声が、脳内にしみいるように届くと。
こんな仕方のない話だったはずなのに、なぜかすごく嬉しくなってくる。
榊監督が認めてくれた……。
どこか間違っているということくらい、宍戸の冷静な頭は薄々気付いていたのだろうが。
それを通り越しても、榊の手放しの褒め言葉は嬉しかった。
視界の端では、満足そうに跡部も頷いている。
「宍戸。お前は今日からテニス部応援の手拍子責任者となれ。」
「……は、はい!」
「分かったな?では、行って良し!」(びしぃ!)
榊の言葉に条件反射のように反応して、宍戸と跡部は。
「ありがとうございました!」
と、頭を下げ、早足で音楽室を後にする。
そして、音楽室の扉を閉め、五歩ほど歩いてから。
……ちょっと待て……手拍子責任者って何だ……??
榊の指示の内容がさっぱり分からないコトに気付いたのだが。
「頑張れよ。宍戸。」
跡部が爽やかな笑顔で、拳を差し出すので。
ついうっかり、その拳に自らの拳を重ね。
「おう。」
と力強く頷いてしまう自分がとても哀しかった、と宍戸はその日の日記に記している。
だが。
「宍戸さん!責任者なんて、すごいじゃないですか!」
鳳が素直に喜んでくれたおかげで。
まぁ、そんな肩書きがついても良いかな、と。
宍戸は前向きに思い直すことにした。
テニス部名物の応援練習は今日も熱心に続けられている。
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