青い鳥〜氷帝篇。
「あ〜あ。ついてねぇ。」
部室に入るなり、宍戸はぼやきながら、ベンチの上にどさりと身を倒す。
「激ついてねぇ。」
夕陽が空を薄く朱に染めてゆく。
窓の向こうから入り込むその色彩さえも、何か不吉な感じがして。
「……っ。」
帽子を目深に被り直して、そのまま宍戸は顔を伏せた。
完璧に仕上げてきた数学の宿題の、たった一問解けなかった問いを授業中当てられたり。
購買のチーズサンドが今日は入荷してなかったり。
ずっと調子が良かったときには通りがからなかった榊監督が、たまたまミスした一瞬を見て、なにやら手帳にメモして去っていったり。
やることなすこと、全て、上手くいかない。
全部がぼろぼろなら諦めもつくが。
上手くいっていると思ったコトが、ことごとく裏目に出ているのが悔しくて。
「はぁ。」
宍戸は本日何度目かの溜息をつく。
「そんな溜息なんかついてると、幸せが逃げるよー?」
「……逃げるだけの幸せなんか残ってねぇよ。」
心配そうな滝に、宍戸は大きく肩をすくめてみせる。
そして、緩慢な動作で立ち上がると、のろのろ着替えを始めた。
その様子をじっと見ていた鳳が、着替えを終えた宍戸のそばにそっと近寄り。
恐る恐る遠慮がちに声を掛けた。
「宍戸さん、あの。」
「あー?どうした?長太郎?」
鳳が手にしていたのは英語の教科書で。指先でそっと開いたページから、鳳はティッシュに挟んだ四つ葉のクローバーを取り出す。
「これ、先週、校庭で見つけたんです。良かったら……。」
幸運を呼ぶ四つ葉のクローバー。
そんなもの、迷信だ、と、宍戸なら一蹴するかも知れない。
あるいは、余計なお世話だ、と怒られるかも知れない。
そう怯えてだろうか。鳳はもう叱られたかのように、しゅんとして宍戸の様子をうかがうが。
宍戸はしばらくクローバーと鳳の顔とを見比べて。
にっこりと笑った。
「悪ぃ。なんか心配させちまってんな。俺。もらって良いのか?」
「はい!」
嬉しそうな鳳の声に、部室に居合わせた面々は心から安堵した。
部内の数少ない常識人コンビが幸せなのは、何よりである。
そのとき。部室の奥の方で。
「なんだ?あれは。クローバーの葉っぱが多いとめでたいのか?」
「うす。」
と。
部長が後輩に尋ねていたことに気付いた者はいなかった。
そして。
翌朝のこと。
部活もなく、少しのんびりと登校できる朝だった。
一人、通い慣れた道を行けば、角から見慣れたおかっぱ頭が飛び出してきて。
「宍戸ぉ!!おはよ!!」
「向日。おはよう。」
元気よく挨拶を交わす。
「なぁ、なぁ、宍戸!俺、宍戸に四つ葉のクローバーをあげようと思ってさ!探してたんだけど、探すの面倒くさくなっちゃってさ!」
向日は上機嫌で、スキップしながら話をする。
横を歩きつつ、宍戸は向日が手にしているけったいな緑色のモノが気になって仕方がなかったのだが。
「結局、探すのやめてさ!宍戸のためにクローバーの冠を作ってみました!!」
案の定、向日は宍戸の頭に、シロツメクサの花冠ならぬ、クローバーの冠をかぶせ。
「あはは!!やっぱりすげぇ似合わねぇ!!」
と、失礼にも指を指して笑い転げた。
「じゃあね!俺、先行ってるから!!学校までそれ、かぶって来いよ!」
宍戸はもちろん、向日が冠から手を離した瞬間に、それをかなぐり捨てようかと思ったものの、折角作ってくれたんだから、と思い直し、指先でぐるぐる振り回しながら宍戸は学校へと向かう。
そこへ。
「おはよ〜。宍戸〜。」
寝ぼけているとしか思えない芥川が姿を見せる。
「おはよう。ジロー。」
「あのね〜。俺、昨日、校庭で寝てたらね〜。頭からクローバー生えてた〜。」
「生えねぇっての!」
「ううん。生えてたの〜。しかも四つ葉〜。宍戸にあげる〜。」
芥川は、ポケットから取り出したハンカチをそっと開き。
「あ〜。クローバー、ねじれてる〜。」
と呟きつつ、宍戸の手にねじれたクローバーを押しつけると。
「じゃ〜ね〜。」
学校とは違う方角へと歩き出す。
「おい!ジロー!学校は?!」
「ん〜。コンビニ寄ってから行く〜。」
右手に芥川のくれた四つ葉のクローバーを持ち。
左手に向日のくれたクローバーの冠を提げ。
歩いてゆく。
「俺、昨日、そんなにへこんでたかなぁ。」
独り言のつもりが。
「まぁ、かなりへこんでたな。」
返事が聞こえて。
「忍足!」
「おはよ。宍戸。」
振り返れば、にやり、と眼鏡を光らせて、忍足がすぐ後ろに立っていた。
「なんや、先にいろいろもらったんやな。」
「向日とジローがくれた。」
「じゃ、俺もやるわ。手作りやで。」
そう言って差し出したのは、緑色のフェルトを重ね、縁をかがって、中に綿を入れた小さなクローバーのマスコットで。
「昨日、制服のボタン付け直すついでに作ったんや。」
「器用だな。お前。」
忍足はすぐに、行き会った他の友人から呼ばれて、宍戸と別れる。
「またあとでな。」
「おう。」
右手に芥川のくれた四つ葉のクローバーと忍足のくれたマスコットを持ち。
左手に向日のくれたクローバーの冠を提げ。
「うふふー。クローバー三昧だねー。」
いつの間に追いついたのか、一本遅い電車に乗っていたであろう滝が、宍戸の手元を覗き込む。
「なんかみんな、くれんだよ。俺、そんなついてなさそうか?」
「昨日、ついてないって自分で言ってたでしょー?だからだよ。」
にっこり笑って、滝は小さな包みを宍戸の鞄に放り込む。
「たまたまストラップ買いに行った店で見つけたから。ついでに宍戸の分まで買っちゃった。良かったら使ってよ。四つ葉のクローバーのストラップ。」
「……お前もかよ。」
「うふふー。」
「……ありがとな。」
滝は黙って首を横に振った。
そして二人はのんびりと学校に向かう。
つもりが。
きぃぃぃん!
と、シャープな効果音と共に。
二人の前に、日吉が演武のポーズで飛び込んできた。
「日吉。おはよー。」
こんなときでもしっかり普通に挨拶できる滝は偉い、と宍戸は思った。
日吉はすっと、宍戸に何かの箱を押しつける。
「バター?」
宍戸が首をかしげれば。
横から滝がその箱を覗き込んで。
「……これ、四つ葉バターだよ。宍戸。」
くすくすと、さも愉快そうに教えた。
「四つ葉!しかも、役に立つ!」
凛とした涼やかな目で日吉は誇らしげに、バターをくるりと回転させた。
「お、俺にくれるのか?」
「はい!」
「……あ、ありがとうな。」
登場と同じくらい唐突に、日吉は軽やかに立ち去った。
「日吉にまで心配されてるなんて。宍戸ってば、昨日はそうとう重症だったんだねー。」
「みたいだな。」
右手に芥川のくれた四つ葉のクローバーと忍足のくれたマスコットを持ち。
左手に向日のくれたクローバーの冠を提げ。
鞄の中にはストラップとバター。
「スーパーの袋で良ければ、ビニール袋あるけど、使う?」
滝からもらった袋に、手にしていたモノを一緒くたに全部突っ込んで。
初夏の優しい朝の風に。
宍戸は少し、柔らかい気持ちになる。
そして、滝と別れて教室に入れば。
彼の机の上には。
クローバーの葉っぱが山盛りになっていて。
樺地を従えた跡部が、嬉しそうに待ちかまえていた。
「……おはよう。跡部。」
「おう。宍戸。」
もうすでに、何も問う気はしなかったが。
とにかく、跡部はクローバーの葉っぱがたくさんあればあるほど、おめでたいとでも思って居るんだろう、と。
その厚意だけはありがたくは思って。
跡部の背後で小さくなって、申し訳なさそうな目で宍戸を見ている樺地に、宍戸は小さく笑みを見せ。
「……跡部。このクローバー、お前が?」
「おう。」
「……サンキュ。」
急に笑いがこみ上げてきた。
滝からもらった袋に、クローバーの葉っぱを投げ込みながら。
なんとも愉快な気分になってくる。
宍戸はくつくつと、声を殺して笑った。
こんなやつらと同じ舞台に立っているなんて、俺は実際、そうとうラッキーなのかも知れないな、と。
「なんか、今日は、激良いこと、ありそうだな。」
「あーん?あるに決まってるじゃねぇか。」
意味もなく自信満々な跡部の言葉に、宍戸は少しだけ声を立てて笑う。
「ああ。全くだな。」
初夏の空は、今日もきれいに晴れ渡っていた。
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