「宍戸。お前はスヌーピーを信じるか?」
唐突に跡部が言い出した昼休み。
長い付き合いから、リアクションに窮する発言には慣れっこになっていた宍戸も、意味不明な跡部語に行き当たると、しばしばフリーズする。
「す……スヌーピー?」
「知らねぇのかよ?!スヌーピー!」
「いや。スヌーピーは知ってけどよ。何だって?スヌーピーがどうしたって?」
宍戸は知っている。跡部の脈絡のない話は、本当に脈絡がない、ということを。
そんな宍戸を見て、大仰に跡部は溜息をつく。
「あのな。宍戸。お前は、スヌーピーを、信じるか?」
「………………スヌーピーを何だって………………?」
宍戸の隣の席にどっかと腰を下ろすと、跡部は鼻で笑った。
そして。
「仕方ないな。俺が順を追って説明してやろう。」
と、慈愛に満ちた眼差しで、優雅に膝を組んだ。
宍戸は脱力しながら。
さようなら。俺の昼休み。
心の中で呟き、椅子をずらして、跡部に向き直る。
「あー?なんだよ。一体。」
顔だけ跡部を見上げるようにしながら、机に斜めに突っ伏すと、跡部が満足そうに微笑むのが分かって、ちょっとだけむかついたが。
宍戸は諦めも良く、なんだかんだいって辛抱強い良い子だったので、むかついた気持ちを心に秘めて、そのまま話の続きを促した。
「これは、俺がまだ、スヌーピーを信じ切れていなかったころの話だ。」
「はぁ。いつだよ。」
「昨日。」
「……そっか。そりゃ、結構、最近だな。」
跡部は宍戸の嫌味を気にする様子もなく、そのまま話を続ける。
滝が二人の方をちらりと見て、どうしたのかな、という風に小首を傾げたが、そのまま膝の上の文庫本に眼を戻した。
目の端にそれを見ながら、宍戸は「滝って常識人っぽいのに、どうしていつもオカルト本ばっかり読んでるんだろ。」と、関係ないことを考えて、少しだけ現実逃避をしてみた。
だが、現実は厳然として、そこに在り。
「土砂降りに遭った。」
「ああ。昨日の夕方な。ひでぇ夕立だったな。」
「俺は一人、歩いていた。」
「へぇ。」
「傘もなく、孤独の中を、一人、見知らぬ町を徘徊して。」
「はぁ?見知らぬ町?」
一瞬、聞き返してから。
ああ、迷子になったのか。
と、宍戸は長年の付き合いで培った理解力を発揮した。
跡部ともあろう者が、雨に濡れて、うろうろ迷子になってたなんて、ちょっとオカシイ。ぜひ、その場面を見たかったぜ。激ださだぜ。
そう考えて、宍戸は少しだけ、跡部の話に関心を持つ。
「傘がなかったが、他に代わりになるようなモノもなくてな。ポケットに入っていたハンカチは、元スヌーピーの小さなハンカチで、土砂降りの中じゃ役に立たない。諦めて、俺はそのまま雨の中を歩いていた。」
「ちょっと待て。元スヌーピーって……?」
「あーん?元スヌーピーは元スヌーピーだ。今は無地のハンカチになっているが。」
「あー。元スヌーピーってそういうコトかよ。」
なるほどな。
洗濯しすぎで柄がはげたんだな。
視界の端で、また、滝が目を上げて、宍戸達を見ている。
たぶん、跡部がひどくご無体なことを言い出したら、助けに来るつもりなのだろう。
しかし、特に何もなさそうなのを確認して、滝は再び、本に目を向ける。
「幼稚園のころ、誕生日にもらったお気に入りのハンカチなんだ。」
「ふぅん。」
「しかも俺の最古の直筆サインが施された名品だぞ。」
「はぁ。」
幼稚園児の跡部景吾くんが、一生懸命お名前を書いたハンカチなんですな。
で、愛着が深くて、いまだに捨てられない、と。
教室のざわめきは一段落し、みな、それぞれ席について、昼食を取り始めていた。宍戸は早弁をしたから、もう、弁当は残っていない。購買に行って何か買うほどの金もない。さて、跡部は昼飯、どうするつもりだろう……?と考えかけて、いや、跡部の心配などなんでしてやる必要がある?!と慌てて宍戸は思い直す。
「しかしスヌーピーはウッドストック達を連れて、いつの間にかハンカチからいなくなってしまった。」
「いなくなって?」
柄がはげたんだろ?
言いかけて、ふと、言いよどむ。
なぜか、それを言ってはいけない気がして。
跡部の真剣な眼差しが、ふと、一瞬、曇った。
「母が言うんだ。スヌーピーはウッドストック達が大きくなったから、もっと大きいおうちに引っ越したんだ、と。」
「はぁ。」
たぶん、幼稚園児の跡部景吾くんは、ハンカチのスヌーピーが居なくなって、大泣きしたんだろう。
想像すると、なかなか面白い光景だ。
宍戸は少しだけ、跡部って可愛い奴だなと思った。
「だが、俺がそのハンカチを大切にしていたら、大きくなったウッドストック達の誰かが、帰ってくるかも知れないから、と。母が言ったんだ。」
「はぁ。」
「だから俺は、その言葉を信じて、今まで、そのハンカチを大事に使っていた。母は当時の約束を忘れて、隙あらばそれを捨てようと狙っていたんだが、俺はずっとハンカチを守り抜いたんだ!」
「そうかそうか。」
「へー。やるねー。」
気が付くと、滝がにこにこしながら、宍戸の机に寄りかかって、話に混じっている。
なんとなく、宍戸は安堵した。
「きっと。ウッドストック達は立派なスヌーピーになって、帰ってくる、と信じてな。」
「……ちょっと待て……。」
「あーん?何だ?宍戸。」
宍戸は、滝が来てくれて、本当に良かった、と思った。
どう考えても、跡部の話は、宍戸の守備範囲を超え始めている。
「ウッドストックって、あの黄色いやつだよな。」
「ああ。当たり前だろ。」
「あれって……スヌーピーになるのか……?」
「ばーか。ウッドストックといったら、スヌーピーの雛だろうが!」
「………………雛………………。」
反論する気も失せて、宍戸は滝を見上げる。
「うふふー。そっかー。ウッドストックってスヌーピーの雛だったんだー?」
滝は全てを超越した笑みを浮かべて、跡部に優しく問い返し。
「あーん?滝、てめぇもたいがい、モノを知らねぇな。覚えとけ。一緒に住んでるんだから、親子に決まってるだろうが!!」
あっさりと跡部に斬り返される。
「んー。覚えとくー。」
滝は偉い、と。
ちょっとだけ、宍戸は滝を尊敬した。
ってか。
スヌーピーってイヌだろ……??
………………雛…………??
「俺は、雨の降る町を歩いていた。傘もなく、自分一人で。孤独に打ち震え、先の見えない不安に心おののきながら。」
要するに。
傘はない。
雨は降ってる。
ひとりぼっちで。
しかも迷子。
「しかし、そのとき俺は気付いた。自分が全く濡れていない、というコトに。」
跡部が情感たっぷりに語る。
明らかに自分の話に酔ってやがるな、と、宍戸は少し眉を寄せた。
「はぁ。雨宿りとか、していたんじゃなくて?」
「してねぇ。吹きさらしんとこ、歩き回ってたんだ。」
宍戸は目を上げて滝の横顔をうかがったが、滝も少し困惑したように、跡部に話の続きを促すばかりで。
「そのとき俺は……唐突に理解した。あいつが……俺の窮地を救うために、帰ってきたんだ、と。」
「はぁ?」
そのとき。
くすくす、と滝が小さく笑い出した。
「そっかー。跡部が気付いていなかっただけで、ウッドストックが一緒に居てくれたんだねー。っていうか、ウッドストック、ずいぶん大きくなったよねー。」
滝の言葉に、宍戸もがっくりと脱力し。
「あー。」
と、呻くように声を上げると、そのまま、机に深く突っ伏した。
跡部の元に帰ってきたものの、体が大きすぎてハンカチに入りきらなかったウッドストックは。
一人、雨の町を彷徨う跡部の頭上に、優しく傘をさしかけていたのだろう。
ずっと。
「そうだ。……俺が振り返ると。」
「んー。」
「傘をさした樺地が居た。」
「……一人で彷徨ってたんじゃなかったのかよ?」
きっと跡部は、振り返りもせずに歩き回り。
樺地は文句も言わずに、跡部の後を付いて回ったのだろう。
あの日、ハンカチから出ていったウッドストックは。
スヌーピーにならずに、樺地になって、帰ってきた、らしい。
「『お前だったのかよ、樺地。』と、俺が聞いてやったら、案の定、樺地のやつ、『うす』と答えやがった。俺は何もかもお見通しだからな。」
それは、樺地としては、別に、ウッドストックだったことを肯定したかったわけじゃなかろうが。
「要するに。」
「あー?」
「ウッドストックは大きくなると、スヌーピーになるが。」
「んー。」
「スヌーピーがさらに大きくなると、樺地になる、というわけだ。」
「…………そうかそうか。」
「うふふー。」
訂正。
ウッドストックはスヌーピーになり、その後、最終形態の樺地に変化する、らしい。
跡部は満足げに鼻を鳴らすと。
「どうだ?お前らはスヌーピーを信じるか?」
自信満々に、もう一度、同じ問いかけをした。
宍戸は知っている。跡部の脈絡のない話は、本当に脈絡がない、ということを。
脱力した体を起こしながら。
世界中のスヌーピーが樺地になる日を想像して。
オカルト好きの滝にぴったりの怖ぇ話だなぁ、と宍戸は考えたが。
まだ、くすくす笑っていた滝は、にっこり微笑んで。
「三回も姿が変わるなんて、樺地ってば、完全変態だね。」
と。
さりげなく、樺地を昆虫にカテゴライズした。
そんなわけで、跡部の説に拠れば。
樺地は昔。
ウッドストックだった、らしい。
ちなみに。
「ありえねぇよな。長太郎。」
「宍戸さん……。」
放課後、宍戸に溜息混じりの話を聞いた鳳が、涙目になって大いに動揺したのは言うまでもない。
ブラウザの戻るでお戻り下さい。