雨宿り〜青学篇。




 五分前までの晴れ渡った空が嘘だったかのように、夕方の青春台は激しい雨に見舞われていた。
「夕立かな?」
「通り雨だと良いんだけどね。」
 校門から駅に向かう道。
 急に崩れた空の下、大石と菊丸は手近な商店の軒先に駆け込んだ。
 見上げれば、薄明るい光が西から射してきてはいるものの、真っ黒い雲が頭上に重くのしかかっている。

 そこへ。
 ばしゃばしゃと水を蹴る音がして。
「英二!大石!」
 鞄で雨を遮りながら、駆け込んできた河村と不二。
 先客の二人は少し端に寄って、二人を迎え入れた。
「びっくりしちゃった。急に降ってくるんだもの。」
「いきなり土砂降りだからね。」
 不二の前髪から一筋、すっと雨の雫が落ちて。
 菊丸はそれまで自分の髪を拭っていたタオルを。
「ほい!」
 と、不二の頭にかぶせた。
「俺らは大して濡れずにすんだけど。不二たちは結構濡れたね?」
「だって雨宿りできるところがなかったんだもの。ありがと、英二。」

 とはいえ、真夏の通り雨は、暑さを軽減してくれる程度のモノで、びしょぬれになったところで、風邪をひいたりするようなこともなく。

「大石が傘、持ってないなんて、珍しいね。」
「そうだな。昨日も夕方、雨が降ったから、折り畳みを使ってさ、それ、今朝晴れてたから、そのまま家に干して来ちゃったんだよ。二日連続で降るとは思わなかったな。」
 打ち付けるような激しい雨音。
 アスファルトの浅い水たまりに雨粒が弾けて、飛沫が上がる。

「夕立って夏だなぁって気がするよね。涼しくなるし、少しくらい濡れるのは気持ちいいし。」
 という不二の言葉に菊丸は。
「夏に涼しくなるって言ったら、夕立よりもだんぜん、怖い話っしょ。」
 と脈絡のない返事を返す。
「あはは。英二、怖い話、苦手じゃないか。毎年、合宿で泣きそうになって。」
「う、うるさいぞ!大石!俺は話している人にサービスしてるんだ!!怖がってあげなきゃ、失礼じゃないか!!」
 鞄をぶんぶん振り回して暴れる菊丸に苦笑しながら。
 河村は靴の泥を落とし終えて立ち上がる。

「俺、怖い話するの、苦手なんだよね。今年の合宿も全員、怖い話しなきゃいけないのかなぁ……。」

 河村がそれを苦手としているのは、みな、良く知っていた。
 最終日の夜には、みんなで集まって怖い話をするのが、彼らの学年の決まりで。
 中一のとき、菊丸と不二が提案したのだが、それが好評だったため、中三の今年もそのまま行われそうな雰囲気であった。誰もがそれぞれ、今年のネタを仕込んでいるらしく。

 そんな中。
 河村は怖い話をするのが苦手なのは有名な話。
 毎年、合宿前から「困ったなぁ。困ったなぁ。」とおろおろしている河村を、友人達は全員、見ていたし、実際、合宿に行って語る河村の怖い話が、怖かったことは一度もなかった。
「えっとね。それで、お婆さんがね……。」
 などと、懸命に語る河村の姿に。
 聞いている人が全員、和んでしまい、それどころか、多くの人が合宿で疲れ、ささくれ立った心を癒されてしまうのである。
 去年など、不二は柄にもなく涙ぐんで。
「……ボクもいつか、タカさんみたいに優しい人になれるかなぁ……。」
 などと言い出した始末で。
 全く、河村の怖い話は怖くないのである。

 ちなみに。
 手塚の怖い話は。
 一昨年は。
「……竜崎先生によれば、9月の数学の復習試験は、95点以上が合格ラインだそうだ。以上。」
 の一言であり。
 去年は一番手だったコトを利用して。
「……今夜、怖くない話をしたやつは、校庭百周。以上。」
 だけであった。

 不二の場合。
 去年はとびきり怖い話をしたあと。
 ふと思い出したように。
「……あ、そうだ。この話、裕太に聞かせて以来、裕太の姿が見えないんだけど……みんな、裕太がどこに行ったか、知らない?」
 と締めて、菊丸を震え上がらせた。
 ちなみに裕太が転校したのは、その直後である。

 そんなわけで。
 河村の怖い話は怖くない。
 しかし。
 友人達はみな、良く知っている。

「こんな土砂降りだと、思い出すな。春先の結構寒かった日に、すごい土砂降りの日があったの、覚えてる?」
 河村がにこにこと、鞄の水滴を拭いながら話し出す。
「そういえば、今年は春先に土砂降り、多かったね。」
「だよね。それでね、土砂降りの夕方にさ。亜久津がびしょぬれになって、うちの店に駆け込んできてさ。」
「うん。」
「すごい形相でさ。ずかずか上がり込んできて。」
「……亜久津が……?」

 亜久津といえば、青学でも悪名名高い不良である。
 部内でも亜久津に怪我を負わされた者は一人や二人ではないし、菊丸などは河村が亜久津に水を掛けられているところを見てしまっている。
 いくら温厚なタカさんでも、亜久津のことは好きじゃないんじゃないか、と。
 菊丸は口に出さないまま、どきどきして、河村の表情を覗き込んだ。

「寒い日だったからさ、真っ青になってちょっと震えてるんだけどさ。どう見ても怒ってるのね。で、タオル出しやがれ!って言うから、俺、タオル貸したんだよ。」
「……う、うん。」
「で、制服の中、変にふくらんでるな、って思ったら、中から仔猫を三匹、取り出してさ。」
「……こ、仔猫?!」
「公園で見つけたんだけど、寒くて動けなくなってるんだ、って。こんな小さいのに、弱いのに、誰が捨てたんだって。泣きそうな顔して怒ってるの。亜久津。」
「……泣きそうな顔して……怒ってるの?」

 淡々と話す河村に。
 一同はなんとリアクションして良いのか分からず。
 とにかくあの恐ろしい亜久津が、懐から猫を取り出す様を想像して、どきどきするしかなかった。

「お袋と俺と亜久津でさ、ぬるま湯に浸したタオルで仔猫温めてさ。そしたらだんだん元気になってきて、良かったんだけど。亜久津は仔猫が元気になるまで、俺らがどんなに風呂入れって言っても、入らないんだよね。」
「……ふぅん。」
「で、元気になったら元気になったで、もうこれ以上家で飼えないし、どうしようってまた怒り出すし。」
「……また怒るの……?」
「亜久津も優紀ちゃんも捨て猫、見ると、片っ端から連れ帰っちゃうんだよ。で、家中猫だらけ。」
「……そ、そうなの……?」
「仕方ないからさ、一緒に猫飼ってくれる人探したんだけどさ。見つかって良かったよ。」
「へぇ……良かったね。」

 温厚な河村の笑顔に。
 猫まみれになって幸せそうな亜久津の姿を想像してしまい。
 あまりの違和感に、菊丸は動悸が激しくなるのを感じた。

「亜久津って、猫、可愛がるの?」
「う〜ん。あいつは素直じゃないからな。仔猫が元気になったの見て、『最高じゃねーの。てめぇ、三枚に下ろして食っちまうぞ。』とか脅迫してたし。」
「……三枚に下ろして……。」
「あいつ、魚さばけないんだけどね。」
「……そ、そっか。」
「頭撫でながら、にやにや笑って、『小僧、どたまかち割られたいか?』とか脅すし。」
「……怖いよ。それ、絶対……。」

 不二は心密かに。
 越前や荒井が亜久津にひどい言葉でののしられていたのは。
 実は。
「可愛いぞ!後輩達!どれ、お兄さんが遊んであげよう。」
 とかいう愛情表現だったらどうしよう、と考えて。
 少しだけうきうきした。

「亜久津さ、今でもときどき、猫を引き取ってくれたうちに猫の様子を見に行ってるんだけど、恥ずかしがり屋だから、物陰からそっと庭とかを覗いてるんだよね。で、よく警察に職務質問されてるんだ。困ったやつだよ。あいつ。」

 友人達はみな、良く知っている。
 河村は、怖い話は苦手だが。
 本人が怖くないつもりで普通にしゃべっている話は。
 ときどき、実は飛んでもなく怖い話だ、ということを。

 薄日が射してきて。
 いつのまにか雨音が弱まってきた。
「さて、帰ろうか。雨も止んできたし。」
「そ、そ、そうだね。タカさん。」
 四人は小走りに、びしょぬれのアスファルトを蹴って、駅に向かって走り出した。
 夏の夕方、一瞬の涼と共に、優しく風が吹き抜けてゆく。




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