合い言葉はみりん!
「部室の鍵、あれは大丈夫なのか?」
跡部がふと、思いついたように言い出したのは。
ピッキングやらサムターン回しやらが騒がれ始めたころのこと。
「どうやろ。あれはそんなに防犯向けにできてないやろな。」
教室の喧噪の中で、忍足が少し考えるように言うと。
居合わせた者達は、そうだよな、と小さく頷いた。
昼休みも半ばを過ぎて、弁当を食べ終えたテニス部員たちは、珍しく覚醒しているジローを中心に集まった。別に何をするわけでもないのだが。ただ、集まってしゃべっているだけで、なんとなく時間が過ぎてゆく。
なんとなく、が、一番楽しい。
「まぁ、わざわざ、部室の鍵をピッキングするやつもいないだろ。」
シャーペンを指に乗せてバランスを取りながら、宍戸が笑えば。
「ダメだ。何かあったとき、困るだろう。」
一言の下に跡部が斬り捨てる。
そして、しばらくの間、跡部は何も言わず、黙り込んで。
他のメンツがトランプで遊び始めても、考え込んだまま、静かなままで。
クラスメイトが傍らを駆け抜けて行っても、全く気にする様子さえない。
そして、数分後。
「なるほど。その手があったな。」
唐突に、何かを閃いてしまった。
「ピッキングを完全に防ぐ手を考えついたぞ。」
ババ抜きも佳境だったために、一同は目も上げずに跡部に相槌を打つ。
「何だよ。跡部。」
「そりゃ、良かったな!」
「ああ。聞いて驚け。」
跡部は一同がちゃんと聞いていないことに、気付いていなかった。
「外に鍵穴があるから、ピッキングされるんだ。ということは、だ。」
「うん。ということは?……お、引っかかったな!侑士!」
「便所の鍵のようにすればいい。中からだけしか開けられないようにするんだ。」
「ふぅん。……あ!ババ、引いた!ちくしょう!」
「そうすれば、決して、ピッキングをされることはない!」
「……俺の負けかよ。」
「やぁい!宍戸!!お前、相変わらず要領悪いな!」
そんなわけで。
誰も話を聞いていないことに気付いた跡部は、一同からトランプを取り上げて、初めから話をやり直す。
さすがに友達の話を聞いていなかったことは申し訳ないような気がしたのだろう。みな、それぞれに少しうなだれて、静かに耳を傾ける。
跡部はそれにいたく満足した様子で、何度も深く頷くと、一同を見回した。
「で。どうだ?この防犯対策は。」
「……一つ、良いか?跡部。」
片手でシャーペンをくるりと回しながら。
宍戸が首を傾げる。
「中からしか開かないすると、部員が外から開けたいとき、どうするんだ?」
聞きながら、宍戸はすでに、「聞くんじゃなかったな。」と後悔を始めていたのだが。
聞いてしまったものはどうしようもない。
そして、跡部の解答は明快だった。
「ふん。そんなときは合い言葉だ!合い言葉を言えた者は、中から鍵を開けて入れてやるんだ!」
「あ、合い言葉?」
「ばかか。宍戸。合い言葉も知らねぇのか。」
「いや、合い言葉くらいは知ってるけどよ。」
宍戸としては。
外から鍵を閉められないんじゃ、防犯もへったくれもないだろう?
と、指摘したかったのであるが。
中にいつでも誰かいなきゃいけないんじゃ、しょうがないだろ?
と、突っ込んでやりたかったのであるが。
そんな問題は、全く跡部の眼中になかったらしく。
「問題は、合い言葉を何にするか、だが。」
真剣に合い言葉を悩み始める。
「『みりん』……そうだな。『みりん』でどうだ?」
「なんで『みりん』やねん。」
「よし!お前ら!『みりん』で決まりだ!」
忍足の真っ当な突っ込みはあっさりスルーされた。
昼休みはどんどん終わりに近づいていく。
しかし。
「でもさ、跡部!合い言葉っていったら、『山!』『川!』ってやつだろ?『みりん!』って言われたらなんて答えるのさ。」
芥川の質問が、跡部の合い言葉魂に火を付けてしまった。
「むむ。『みりん!』の反対語か。なんだろうな?『しょうゆ!』か?」
「違うよ!跡部!!絶対、『ミソ!』だよ!!」
「違うってば!向日!!俺は断然、『酢!』だと思う!!」
「しょうゆ!」
「ミソ!」
「酢!!!」
予鈴までもう時間がない。
滝が跡部の手元から、すっとトランプを回収して箱に収めた。
「……なぁ、滝。みりんって、反対語あるのか?」
「うふふ。何でも真面目に考えるのが宍戸の悪い癖だよー?」
滝はにっこりと、その長い前髪を揺らして優しく微笑んだ。
予鈴が鳴る。
教室のざわめきは、喧噪に変じて。
生徒たちは次々と、移動教室の支度を始める。
そして、時間は流れ。
放課後、部活の時間が来る。
まだまだ昼間の明るさが保たれている初夏の三時過ぎ。
テニスコートには身支度を整えた部員の姿が一人、また一人と増えて。
うろうろと、準備体操をしたり、雑談をしたり、じゃれあったりしているころ。
「そんなわけで。ピッキング対策を考えた。」
跡部は真っ向勝負で、部員たちに宣言した。
もちろん、三年生たちはすでに軒並み頭を抱えていたし、二年生たちは目眩を感じ始めていたし、一年生たちは、きっと跡部先輩は偉大すぎて考えることは常人の理解を超えているのだ、と初めから思考を放棄していた。
そんな中で。
やはり、損な性分の者はいるのである。
「跡部部長。一つ、良いですか?」
ついうっかり、質問してしまう鳳長太郎。
宍戸が止める間さえなく。
「ドアの外に鍵穴を付けないで、トイレのドアみたいにするなら、帰るとき、どうやって戸締まりするんですか?」
常識人というのは、大変なコトだ、と。
忍足は静かに瞠目した。
常識人というのは、時としてひどく勇敢なんだなー、と。
滝は静かに瞑目した。
穏やかに問う鳳に、跡部は投げるように視線を向けて。
「ふん。」
と、小さく鼻で笑った。
そして。
「良いか。鳳。」
教え諭すように口を開く跡部。
「お前は便所から出るときに、便所のドアをどうする?」
「え?」
「戸締まりなんか、気にするのかよ?」
「えっと。」
「はん。考えてもみろ。便所から出たら、便所のドアは開けっ放しだ!開けっ放しなら、決してピッキングの被害には遭わない!!」
「……はぁ。」
「分かったか?ピッキングを防ぐ最大の手は、鍵を閉めないこと!それに限るんだ!」
跡部は。
言いたいことを言い切って、満足そうに鼻を鳴らすと、腕時計をちらりと見、部員たちに部活の開始を告げた。
「行くぞ。樺地!」
「うす!」
呆然と立ちつくす鳳の肩に、宍戸がぽふっ、と手を置いて。
「気にするな。長太郎。跡部は防犯を気にしているんじゃない。あいつは、自分が閉めたドアを他のやつに勝手に開けられるのが許せないだけなんだ。」
昼休みに自分が気付いてしまった真実を、優しく哀しくささやいた。
「……部室に……ピッキングしてまで入ってくる人は、いるんでしょうか?」
鳳には遠い目をしてそう呟くほか、選ぶべき言葉はなかった。
遠い風の向こうで。
跡部の呼ぶ声がする。
今日も部活が始まろうとしていた。
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