合い言葉はしゃもじ!


 ぽん!ぽん!
 部活終了後の部室の片隅で、手を合わせる林と池田。
「おしゃもじさま、おしゃもじさま!どうかおすくいください!」
 神妙な面もちで彼らはロッカーの上に飾られたしゃもじを見上げる。

「あ。やべぇ。俺も拝んどかなきゃ。」
 荒井とじゃれていた桃城は、慌てたように荒井の袖を引っ張って、しゃもじの前に移動し。
「拝め!拝め!」
「おう!」
 やはり彼らも並んで手を合わせる。

 一年生たちは、ぽかん、とその様子を見守っていたが。
 手近な先輩たちに、あれは何ごとか?と尋ねた。
 賢明なる一年生は、河村に問いかけたのであるが。
 約一名、うっかり者がいて。
 戻ってきた桃城に、事情を聞いたのであった。

「桃先輩。あれ、何すか?」
「あ?越前、お前、知らねぇのかよ?いけねぇな。いけねぇよ。あれはおしゃもじさまだろ!覚えとけ!」
「おしゃもじさま……?」
「青学テニス部を全国制覇に導く、テニスの守り神さまだぜ?」
「……あのしゃもじが?」
「おしゃもじさまと呼べ!おしゃもじさまと!!」

 腑に落ちない、と言った顔つきで、越前はロッカーの上に鎮座している小さなしゃもじを眺める。
 少し離れたところから一生懸命見れば、ようやく半分見えるくらいの、ひっそりとした置かれ方で。
 今まで、あんなところにしゃもじがあるなんて気付きさえしなかった。

「……守り神なのに、埃まみれじゃん。」
「良いんだよ!埃まみれなのが、今、おしゃもじさまのマイブームなんだから!」
「ま、まいぶーむ?」
「あ〜、帰国子女の越前には難しい言葉かな。こりゃ。」

 越前リョーマはそのとき。
 難しい言葉を普通に使える桃城は、やっぱり中二でオトナだ、と、素直に尊敬した。

「良いか?越前。おしゃもじさまはな、俺たちの部活を毎日、見守ってくださるんだ。」
「ういっす。」
「感謝して拝むんだぞ?」
「ういっす。」
「そうすれば……この中の誰かが将来大きな大会に出るとき、おしゃもじさまがラケットに変身して、俺たちを助けてくださるんだから。」
「……は?」

 いつもにこにこしている桃城が、珍しく大まじめな顔をして、しゃもじを見据えながら、呟くように言葉を紡ぐので。
 真に受けて良いのかどうか、一瞬、迷った越前であったが、ここは素直に驚くことにした。

「マジっすか?」
「信じてねぇな?お前。いけねぇな。いけねぇよ!」
「で、でも、しゃもじがラケットに変身するなんて、ありえないっすよ!」
「は〜?ありえねぇって何だよ?おしゃもじさまをバカにするな!」
「だ、だけど、桃先輩!」
「良いか?越前。お前のオヤジさんも、国内大会で優勝したときや、世界の四大大会に出たときは、おしゃもじさまの変身したラケットで戦ったんだぞ?」
「……ま、マジっすか?!」
「おしゃもじさまのおかげで、お前のオヤジさん、世界のサムライになったんだからな!ちゃんと感謝しろよ。」

 桃城と越前の横では、不二がにこにこと話の成り行きを見守っており。
 手塚と乾は真顔で、大石と河村は心配げな様子でたたずんでいた。

 そのとき、ばさり、と荷物を担ぎ上げた荒井が声を掛ける。
「桃城、早く行くぞ!」
 少し慌てたように、桃城は振り返り。
「あ、悪ぃ!今、行く!!……越前、俺、今日、林たちと数学の試験勉強一緒にやる約束になってるから、先帰るぜ!じゃあな!」
「試験勉強?」
「明日、試験なんだよ。」
「あ。そうなんすか。お疲れさまでした!」

 呆然としゃもじを見上げる越前を残して。
 勢いよく部室の扉を閉め、桃城は中二の仲間たちと駆けだしていった。

「……なぁ、手塚、今の話……」
 大石は、桃城の悪巧みを邪魔して良いものかどうか量りかねて、それまで黙っていたのだが。
 それは手塚も同じだったらしく、大石の言葉を遮って口を開く。
「全く。あんないい加減な話をされては困るな。」
 越前ははっとしたように、手塚を振り返った。

 そうだよな。手塚。
 いくらなんでも、今の桃城の話は変だ。
 越前だってすぐに作り話だと気付くだろうけど。
 そう、今は桃城の演技力に騙されているだけ。

 あのしゃもじは。
 二年前、広島に行った竜崎先生の宮島土産で。
 実は端っこに「学業成就」と書いてある縁起物である。
「勉強に関しては、ホント、救いのないお前たちだからな。しゃもじに縋ってでも、すくってもらいな。」
 そう言って豪快に笑った竜崎先生の姿を、鮮やかに思い出しながら。
 大石は手塚と越前の顔を代わる代わる見た。

「良いか。越前。」
「ういっす。」
「あのしゃもじがラケットに変身して、青学出身の選手を助けてくれるのは、国際大会だけだ。国内大会では助けてくれない。」
「……は?」
「分かったか?」
「う、ういっす。」

 大石は。
 軽い目眩を感じた。
 手塚はこういう冗談を言う質の男ではない。
 ということは。
 手塚はこの話を信じている、というコトである。
 そういえば、二年前、竜崎先生がしゃもじを部室のお土産にくれた日。
 ……手塚は部活に来ていなかった。

「ふふ。越前も手塚も頑張ってね。きっとおしゃもじさまが助けてくれるよ。」
 不二が優しく微笑んだ。
 そうなってしまっては。
 河村や大石に口出しをする余地はない。

 会話が途切れた後の静けさの中。
 視界の隅で、越前が大まじめにしゃもじを拝んでいるのに気付いても。
 大石には、「学業成就!越前、それは学業成就の縁起物だ!」と心の中でつぶやき続けることしかできなかった。

 夕風の穏やかな帰り道。
 たまたま、大石、河村、不二、乾が同道したのだが。
 不二と乾はいたく楽しそうであった。
「手塚も越前も、あんな話信じたまま、ホントにプロ選手になったらどうするんだよ。」
 溜息混じりに大石が突っ込むと。

「え?」
 不二は笑顔を深めたまま、驚いたような声を上げ。
「そうしたら僕、特製のラケットを持って、国際大会の会場まで行くよ?で、『おしゃもじさまが力を貸してくれるから!』って言って、ちゃんと彼らに手渡すから。大丈夫。」
 励ますように慰めるように、力強く言い切った。
 それは、本当に、「大丈夫」なんだろうか?
 大石にはそう聞き返す勇気がなかった。

 不二の言葉に一瞬、眼鏡を光らせて小首を傾げた乾は。
「きちんと打ち合わせをしておかないとまずいぞ。不二。大和さんも同じことを企んでいる可能性が高い。かち合わないように事前に確認しておいた方が良い。」
 と静かに警告し。
「ああ、そうだね。大和さん、きっと国際大会で手塚におしゃもじさまラケットを手渡したくて、あんな話を作ったんだろうからね。」
 心から賛同したように不二が応じた。

 犯人はやはり大和さんか……!
 素直に大石は頭を抱える。
「胃薬、あるよ?」
 小さく河村が声を掛けてくれて。
「ありがとう。タカさん……。」
 人の温かさがこんなに嬉しい日も珍しい、と大石はしみじみ思った。
 夕焼け雲のだいだい色さえも、なんだか涙を誘う。

 ふぅっと、大きく息を吐いて。
 気を取り直し、大石は。
「ねぇ、タカさん。学業成就のしゃもじなのに、あんなに越前や手塚にテニスのために拝まれてさ。微妙じゃないのかなぁ。あのしゃもじ。」
 精一杯、微笑もうとした。
 日の沈みきった後、濃紺の空の下。
 風は柔らかく吹き抜けて。

「うん?そうかな。大石。でもさ、真剣に縋ってくる人のことは、きっと誰でもすくってくれるんじゃない?だってあれ、しゃもじだもの。」

 河村の穏やかな声を西の空へと伝えて消えた。
 東の空に白い月が昇る。

「そうだね。しゃもじだもんね。」
 いつの間にか、本当に優しい気分になって。
 大石は空を見上げた。



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