三時間目が終わるころから、南は空腹を覚えていたが、なんとなく早弁をする気にもなれず、結局、お昼休みになるまで我慢を続けて。
四限終了のチャイムと同時に、彼は弁当を鞄から引っ張り出した。
まだ先生は教室から出ていく様子もなく、生徒たちも休み時間にしていいのやら、ちょっと判じかねている風情だったが、一時間にも及ぶ空腹との戦いに勝利したばかりの南には、そのような瑣末事に付き合ってやる義理は全くなかった。
「俺も。俺も。」
隣の椅子を引きずり寄せて、東方が南の机に弁当を広げる。
「ん。」
持参したペットボトルを机の隅に避けて、東方に場所を作ってやりながら、南はもう箸をくわえて、臨戦態勢に入っていた。
そして。
弁当箱を開く。
「あ。」
「あ。」
海苔弁には悲劇がよく似合う。
その日、南の弁当のメインディッシュであった海苔弁の海苔は。
みごとに弁当箱の蓋に張り付いていたのであった。
「切ないな。南。」
「う〜ん。まぁ、こういう日もあるさ。」
そう呟きながら。
南はそっと箸の先で、蓋から海苔を剥がしていく。
慎重に、慎重に。
少しも破くこともなく、きれいに海苔を剥がし取る。
「……お前、器用。」
「ん?そうか?ゆっくりやれば簡単だぞ?」
東方に目を向けることもなく、南は剥がした海苔をご飯の上に丁寧に広げて。
両手を合わせ。
「いただきます!」
と、弁当箱に頭を下げた。
南家の海苔弁には、ご飯と海苔の間に醤油に和えたおかかが挟まっている。
それが中一のときに大流行したので、山吹中テニス部員の海苔弁は軒並みおかか入りである。
「結局、ご飯の上に戻すんだな。海苔。俺ならそのまま喰っちゃうけど。」
「え?だって。戻さなきゃ、おかかご飯になっちゃうだろ。」
「……おかかご飯……。」
「俺、おかかご飯も好きだけどな。」
などとしゃべりながら、南は箸を休めない。
なにしろ、三時間目からお腹が空いていたのである。
「なぁ、南。おかかって地味だよなぁ。」
「ん?地味?」
「だって、真ん中でこんなに味付け頑張ってるのに、おかか見えないし。『海苔弁』っていう名前にも入ってないし。」
「そっか。そういえば、地味だな。」
東方のお弁当は、本日、おいなりさんであった。
「良いな。おいなりさん。」
「あ、一個、食う?胡麻入りだぜ?」
「もらって良いのか?」
「おう。食え。その代わり、そっちのソーセージ寄越せ。」
「オッケー。取り替えっこだ。」
二人は、いつも通り、地味に、しかし幸せにお昼休みを過ごしていた。
間違いなく、その瞬間までは、幸せであった。
「そういえばさ。今朝。」
「うん?」
「伴田先生に言われたんだけど。ポーチ作戦に名前を付けてみたらどうだって。」
「名前?」
「千石の『虎砲』みたいなやつ。」
「ふぅん。付けるの?南。」
「どうする?一応、考えてみるか?」
弁当を半分平らげて、人心地着いたころ。
南は朝練で伴田先生に提案されたことをようやく思い出して。
「考えてみても良いけどなぁ。なんだろ。名前ねぇ。」
「う〜ん。ダブル・アタックとか?」
「そうだな。ダブル・クラッシュとか。」
「地味’sスマイルとか。」
「コンビネーション・トラップとか?」
「コンビネーション・マジックとか。」
「地味’sミラクルとか。」
「ツイン・スピリットとか?」
「ツイン・スペシャルとか。」
「地味’sファンタジアとか。」
三秒くらい、沈黙が世界を支配してから。
『地味’sって言うなぁ!!』
ようやく、南と東方の同時突っ込みが炸裂した。
「いつから混入していた!!千石!!」
「わ〜い!地味’sに混入成功!俺も今日から地味’sだ!!」
南の机に顎を載せて。
しゃがみ込んだ千石はにたにたと二人の顔を見上げていた。
「俺もついに地味’sデビュー!!やったね!!俺!」
「な、何、喜んでるんだ?このばかは。」
「……千石の言ってること、いちいち真に受けて動揺するな。東方。」
しかし、千石は本当に嬉しそうに笑っていて。
「ね、新渡米!今日から俺のことも地味’sって呼んでね!」
「何なのだ?千石。お前のどこが地味なのだ?」
偶然、横を通りがかった新渡米にまで、嬉々として声を掛ける。
その無邪気な喜びように、南と東方は顔を見合わせた。
本当にこの男の考えていることはさっぱり分からない。
諦めて南は、食事を再開する。
「良いな〜。海苔弁。」
「千石。お前、弁当は?」
「食べちゃった。」
「早いな。」
「ん。早弁〜。で、もう腹減っちゃったんだ〜。」
「……手に持っている箸は何だ?」
「……あれれ?何だろ?!」
「…………しょうがねぇやつだな。少しだけだぞ。」
そう言って。
弁当箱の蓋に、数口分、海苔弁を取り分けてやる南。
「ありがとう!!南くん、大好き!!」
横から、半分に切ったおいなりさんが、そっと蓋に載せられる。
「東方もすげぇ好き!!むしろ地味’s、愛してる!」
『地味’sって言うなぁっ!!』
ぴしっと。
机に顎を載せたままの千石の額に、南と東方の箸が刺さる。
「二人ともさぁ、なんで地味’sが嫌なの?俺、すげぇ好きなのに!」
箸が刺さったまま、ぷぅっと頬を膨らます千石。
南と東方はまた、顔を見合わせた。
「地味’sって、おかかじゃん。」
「はぁ?!」
「海苔とご飯の間に挟まって、見えないし目立たないし地味だし、ちょっと見、なくても気付かれないけどさ。一番美味しいの、おかかじゃん。おかかがないと、海苔弁、海苔とご飯だけでつまんない。」
「……はぁ。」
「俺、おかか大好き!!むしろおかか、愛してる!」
そう言いながら。
持参した箸で、海苔弁とおいなりさんを幸せそうに食べ始めて。
「おいなりさんで言えば、胡麻だよね。なくても良いように見えるけど、入ってないと物足りない。」
南と東方はもう一度、顔を見合わせた。
確かに今日の東方のおいなりさんは、ご飯の中に胡麻が和えてある。
「俺、おかかになりたい。海苔もご飯も良いけどさ。誰からもチェックされてないように見えて、本当の実力者は隠し味のおかかじゃん。」
「千石……。」
「ジュニア選抜もエースもさ。名前だけじゃん。能あるトンビが鷹を生むんだよ。俺、おかかになる。決めたんだ。」
「……ばぁか。お前は海苔だろ。千石。」
途中で引用されていたことわざには少し突っ込むべきところがあると思うのだが。
今日のところはスルーしてやることにした。
「海苔がなきゃ、海苔弁じゃないだろ。おかかはおかかで海苔は海苔。どっちもなきゃ、海苔弁にならねぇよ。」
「む。」
「お前はおかかじゃないよ。他の何かになろうなんて思わなくても良い。お前は他の誰でもない、かけがえのない山吹のエースなんだ。」
「……うん。」
「エース千石が居なきゃ、山吹は始まらない。そうだろ?東方?」
「ああ。それに、おかかだけの海苔弁は海苔弁じゃない。ただのおかかだ。」
大まじめな東方の台詞は。
落ち着いて考えると、さっぱり意味が無くて良い感じだったが。
これも一応、今日のところはスルーしてやろう、と、南は思った。
「ありがと。地味’s。」
「はは。」
「俺、地味’sに入るの、諦める。」
「ああ。そうしてくれ……。」
「みんなで。みんなで力を合わせて、立派な海苔弁になろうな!」
「……ああ。」
満面の笑みで、千石は海苔弁の最後の一口を食べ終えた。
それを待って、南も自分の弁当を食べ終え、蓋をしめる。
東方はすでにお弁当箱を空色のナプキンに包み始めていて。
なんだかずれている気がするが、千石は精一杯、自分のできることを模索して居るんだ、と。
部長として、南はエースの精神的成長を頼もしく感じた。
「俺、虎砲、名前変えようかな?」
「あ?」
「海苔にしようかな。うん。良し!今度から海苔にしよう!」
「やめてくれ。それ。意味分からないから。」
「ええ?何でだよ?南!試合見ながら、『出たな!千石の海苔!』とか言ってよ!!」
「やだよ。俺は!」
少しでも、千石の真摯な思いを評価した自分がばかだったと。
南は速攻で弁当を分けてやったことさえ、後悔した。
「じゃあさ、地味’sのポーチ作戦もさ!」
南と東方は顔を見合わせた。
「おかか作戦に変えようとか、言うなよ。」
「え?!良いじゃん!おかか作戦!俺、試合中、むちゃくちゃ連呼しちゃうからさ!」
「やめろ。」
脱力している南と東方をあたふたと見比べてから。
南の机に頬杖を突いてしばらく何かを考えていた千石は。
ぱっと顔を輝かせると、自信満々にこう提案した。
「じゃあさ!じゃあさ!『地味’sのおかか大作戦』ならどうよ?」
『地味’sって言うなぁっ!!』
基本を押さえた絶妙のタイミングで。
南と東方の箸箱が、かちゃり、と、千石の脳天を直撃した。
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