世の中には。
見ようにも見られないものがある。
パンドラの箱〜氷帝篇。
「おい。忍足。」
「なんや。」
とあるお昼休みのできごと。
跡部がわざわざ自分から忍足に話しかけるなど、珍しいことである。
周囲に居合わせたテニス部員たちは、少しびっくりして振り返った。
「今日は昼休み、部室、あの、なんだ。そう、使えねぇからな。」
「はぁ?」
「えっと、まぁ、なんていうか。使うな。いや、むしろ、部室などないと思え。その存在を忘却しつくせ。」
「はぁ。」
「決して部室に入ろうなんて考えるな。良いか?」
「はぁ。まぁ、俺は良ぇけど。」
「他のやつらにもそう言っておけ。」
それだけ言い切ると。
跡部は足早に教室を立ち去った。
今日は朝練もなく、昼に部室に行く用のある者も少ないのだが。
部室は昼間、基本的に開放されていて、ときおり、弁当を食べるのに利用する部員もいる。
あるいは、試験前などには、自習室代わりに使っているやつも居ないでもない。
誰かがふと、部室に行こうと言いだしても不自然なことではないのだが。
しかし。
あそこまで厳重に釘を刺されると、なにやら不思議な感じがする。
「跡部のやつ。何やろ?」
「部室を使うなって……。あんなにしつこく言っているからには、何かあるよな。激気になるぜ。」
「女かぁ?」
「女ぁ?部室に連れ込むってのか?いくらなんでもそれはねぇだろ。忍足。」
「……そやな。そんな野暮なことはしないやろな。あの跡部やし。」
宍戸と忍足が首を傾げている横で。
向日と芥川も首を傾げていた。
「跡部のやつ!!何だろ?わくわくする!!何だと思う?向日!」
「部室を使うなって……。あんなにしつこく言っているからには、何かあるよな。超気になるぜ!!」
「樺地かなぁ?」
「樺地ぃ?部室に連れ込むってのか?うひゃあ、それは樺地が可哀想だぜ!!ジロー!」
「だよな!!」
滝はにこにこしながら話を聞いている。
「あ!分かった!!向日!俺、分かっちゃった!!」
「え?何、何?!ジロ!」
「うん!跡部はね、きっと今、部室で宇宙人飼ってるんだよ!!」
「宇宙人、飼ってるの?!見たいよ!俺、宇宙人、超見たい!!」
忍足もにこにこしながら話を聞いている。
宍戸は額を押さえて、話を聞いてしまっている。
昼休み。教室のざわめき。
どういうわけだか面々は、いつのまにか。
一緒に弁当を食べる流れになって。
「いただきま〜す!」
そのまま、ドア付近の忍足の机を囲んで、食べ始める。
「宇宙人、どこから来たのかな?」
「そりゃ、宇宙だよ!向日!決まってるじゃん!」
「宇宙って言っても広いだろ!宇宙のどの辺だよ!」
「知らない!宇宙人に直接聞こうよ!!」
どうも、向日と芥川の中では、部室に宇宙人が隠れ住んでいることは決定事項になったらしく。
「なんで跡部が宇宙人をかくまってるのー?」
滝が基本的なトコを突っ込むまで、宇宙人談義は盛り上がっていた。
「そっか。跡部が宇宙人をかくまうのはオカシイか!」
「分かった!滝!俺、天才!樺地が拾ったんだよ!宇宙人!」
「おお!ジロー、天才じゃん!!」
訂正。
滝の基本的な突っ込みを喰らっても、宇宙人談義は盛り上がっていた。
そこへ。
廊下から声がかかる。
「すみませ〜ん!あのぉ、宍戸さぁん!」
聞き慣れたその声は。
二年生の鳳のもので。
教室の戸口には、鳳と日吉が、少し肩身が狭い様子で立っていた。
「おう。どうした?」
席に座ったまま声をかける宍戸。
二年生二人は、やはり三年生の教室で緊張しているのか、なにやらもじもじと話の糸口を探しつつ、互いに口火を切る役を押しつけ合っているようにみえたが。
「部室の鍵、持っているの、跡部さんですよね?」
ようやく鳳が口を開く。
「おう。跡部だけど。なんか、今日は部室に入るなって言われてるんだ。お前ら、部室、使うのか?」
椅子の背もたれに寄りかかり、少し椅子を倒すようにして、宍戸は困ったように尋ねる。
中二たちは、一瞬、顔を見合わせたが。
「俺と若、昨日、英語の辞書を部室に入れたまま帰っちゃったんです。お昼休みに取りに行けばいいやって思って。で、今、取りに行ったら、部室、鍵、開いてなくて。」
鳳の言葉に、三年生は顔を見合わせる。
「跡部のやつ、鍵まで閉めて、中で何やってるんや。」
「ホント。激気になるやつだぜ。」
「だ・か・ら!!宇宙人だって言ってるだろ!」
「ジローの言う通りだぜ!宇宙人!宇宙人!」
「うふふー。居たら、見てみたいよねー。」
三年生のリアクションに、二年生二人はついていきかねて。
小首を傾げて、フリーズする。
そんな中。
「英語の辞書、だよな。俺、今日は持ってないけど。誰か、貸してやれないのか?」
ようやく、宍戸が建設的提案をする。
「あ、俺、あるぜ?!ちょっと落書きとかしてあるし、シールとかプリクラとかいろいろ付いてるけど、ごめんな。」
そう言って。
向日はごそごそと鞄の中から、使い込んだのだか、手荒く扱ったのだか分からない、ぼろぼろの辞書を取り出す。
「ありがとうございます。向日さん。」
鳳は両手でそれを受け取った。
「あ、俺もあるよ。ちょっとアレとか書いてあるし、アレとかソレとかいろいろ憑いてるけど、ごめんねー?」
そう言って。
滝はどこからともなく、なにやら不思議な色合いに変色した、日に焼けたらしい辞書を取り出す。
「ありがとうございます。滝さん。」
両手でそれを受け取る日吉を見ながら、鳳は。
若は本当に勇気があって偉いなぁ、と思った。
滝さんのあの台詞を聞いたら、自分なら間違いなく、辞書なしで授業に出たいと願ったに違いない、と。
「お昼休み、跡部部長が部室を使っているんですか?」
辞書を抱えて、日吉がふと思いついたように尋ねる。
いつもは歯切れの良い忍足が、少し言葉を選ぶように。
「らしいんやけどな。何に使うか教えてくれない上に、絶対覗くなって言うてて。訳がわからん。」
「だから!部室で宇宙人……もがっ!宍戸、何するんだよ!」
「二年生相手に、変なこと言うんじゃねぇよ!ジロー!」
芥川の台詞と宍戸のリアクションに、鳳はおおよその事態を理解した。
そして。
きぃぃぃぃん!
と。
日吉はおおよその事態を誤解した。
「違うからねー?日吉。跡部は部室で、地球を守るために、宇宙人と戦っているわけじゃないからー。構えなくても良いよー?」
「……!!」
そして。
きぃぃぃぃん……。
と。
誤解を指摘されて、少ししょんぼりした。
「とにかく、宇宙人は関係ねぇだろ。」
「むぅ。」
宍戸にびしっと決めつけられて、芥川と向日は憮然とするが。
すぐに笑顔に戻った。
「今度こそ、分かったぞ!!跡部は、部室で機を織って居るんだ!」
「だよな!俺もそう思った!!」
「はぁ?!」
「宍戸、分かんないの!?跡部の恩返しだよ!跡部の恩返し!ね?向日?」
「そうそう!見ないでくださいね〜って言って、部室でとんとんからりとんからり、だよ!!」
鳳は。
たとえ、同期の親友が無口な樺地と、挙動不審の日吉であっても、自分は中二で良かった、と思った。どうも自分は脆弱すぎて、中三軍団の中では、無事に生きていくことはできそうにない。
そして、そう悟ればこそ、宍戸の漢らしさに尊敬の念を新たにすることとなる。
「分かるかよ。分からねぇよ!ってか、跡部が機を織れるのか?!あいつ、羽、ねぇぞ!」
「むぅ。宍戸、鋭いぞ!」
「むむ。宍戸の癖に鋭いぞ!」
「ついでに言うと、誰に恩を返すんだよ!!」
「むぅ……樺地に?」
「むむ……樺地に?」
「訳分からねぇよ!!!」
「跡部の場合、機を織るよりも旗を折る感じやな。滝。」
「でも、部室に旗なんか、あったっけー?」
結局、何も分からないまま、昼休みが終わろうとするころ。
跡部が教室に戻ってきた。
「あん?なんだ?お前ら。」
「……跡部。一体、何だったんだよ?昼休み、部室使うなっての。」
勇敢にも宍戸は質問をぶちかます。
そんなことをすれば跡部に嫌な顔をされるに決まっているが。
そっちの方が、向日や芥川の妄想に付き合わされるより、ずっとましだと判断したのだろう。
向日と芥川が目をランランと輝かせ。
忍足と滝もそれなりに興味深そうに跡部を振り返り。
日吉も鳳も、まっすぐな眼差しで部長を注視する中。
案の定、不機嫌そうな声で。
「あーん?部室のコトか?」
一瞬だけ、跡部は宍戸から目をそらす。
しかし、軽く舌打ちをして。
「……鍵、忘れたんだよ。」
と。
呟くように言い捨てた。
「はぁ?」
「家の者に届けさせた。さっき、開けてきた。」
そう。
照れくさそうに言う跡部に。
向日と芥川がちょっとがっかりしたのは言うまでもないが。
日吉が。
実はものすごくがっかりしていたことに気付いたのは。
滝だけであった。
部室の扉。
それは。
パンドラの箱。
真実を知らない内が華。
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