受け継がれる意志。
「青学の柱になれ。」
手塚が越前にそう命じた翌日のことだった。
部活終了と同時に、いつもならさっさと帰ってゆく越前が、同級生や桃城の誘いを断って、もぞもぞと部室に残っている。
何かあるな。
大石は何度も越前のうつむきがちな横顔に視線を走らせた。
案の定。
人影がまばらになったころ。
「大石先輩。ちょっと相談したいことがあるんすけど。一緒、帰って良いっすか?」
越前はぼそぼそと小声で頼み込んできた。
「ああ。構わないよ。ただ、もう十分ぐらい待ってもらうけど、構わないか?」
「うぃっす。」
部室に置きっぱなしの埃っぽいベンチに座って、越前は帽子を被り直す。
初夏の夕暮れは、湿度の高さを肌で感じる。
ハナミズキが精一杯着飾る並木道を、並んで歩けば。
ただでさえ寡黙な後輩は、口を閉ざして、歩みを進めるばかりで。
「どうしたんだ?越前。」
つい、助け船を出してやりたくなる。
「……あの。昨日、手塚部長に言われたこと……。俺、考えたんす。」
「ん?」
助け船に押されて、小さく言葉を選ぶ少年の声は、つぶやくようにささやくように、静かに紡ぎ出されて。
「青学の、柱に、なれ、っての。」
「うん。」
暮れ方の薄闇の中、越前は顔を上げようとしない。
「俺、急にそんなコト言われても、どうしたらいいか分からなくて。」
「そっか。そうだよな。」
確かに。
まだ12歳の少年に、いきなり「柱になれ」なんて言う方がどうかしているのかもしれない。
たとえそれだけの実力があったとしても、「柱」が背負わなくてはならないしがらみを考えれば、彼には荷の重すぎる言葉だっただろう。
しかも内容は漠然としていて、具体的に何から始めれば良いのかという、戸惑いもあるはずだ。
少し悪いことをしたな。
と。
人の良い大石は反省した。
「……ホント、分からないんす。柱って言われても。」
「うん。」
雨でも降りそうな湿度の中、空は雲一つない夕暮れ時。
意を決したように、越前は顔を上げ。
強い口調で、問いかけた。
「その柱。どうなんすか?ケヤキ?それともヒノキなんすか?俺、大理石とか鉄筋とかは嫌だし。」
「……うん。」
「やっぱり、日本家屋の柱っすよね?」
「…………ど、どうかな。明日、手塚に聞いてみると良いかもしれないな。」
その瞬間の大石には。
比喩と現実の境界をいまいち理解していない越前の誤解を、解いてやるだけの余裕がなかった。
翌日、大石は手塚に相談を持ちかけた。
そばを通るだけで、ふわりとユキヤナギの花が散る暖かい朝。
「越前が困ってるみたいなんだ。柱になれって話、少し抽象的だからさ。分かりにくかったらしい。良かったらもうちょっと分かりやすく説明してやってくれないか?」
精一杯、何かを包み隠した大石の言葉に、手塚は目を上げて。
「そうか。確かに俺も、中一の時、大和さんにそう言われて困惑した記憶がある。説明しておこう。」
力強くはっきりと言い切った。
「それは助かるよ。」
「いや。それが俺の務めだ。大和さんから説明されたことを、越前にきちんと伝えなくてはな。」
「ありがとう。さすがは手塚。頼りになるよ。」
大和さんに詳しくいろいろ教わっていたんだな。手塚。
今まで知らされていなかったその事実に、少しだけの嫉妬と、本心からの信頼を感じて。
大石は自分でも気付かないうちに、小さく微笑んでいた。
そして。
練習の合間に。
コートの隅で越前を呼び止める手塚の姿を見て、改めて大石は微笑むこととなる。
手塚の真摯な表情を見上げ、越前は目を輝かせながら懸命に頷いている。
別に用があったわけではなかったのだが、何かのついでを装って、大石は彼らのそばに歩み寄った。
「……であるから、柱というのは。」
「はい。」
「真ん中に立って、常にまっすぐでなければならない。周りを支えられるくらい、丈夫でなければならない。」
「はい。」
いつもより饒舌に、丁寧に、言葉を続ける手塚。
そして、従順にそれを受け止めようとする越前。
こうやって。
意志は受け継がれていくんですね。
大石は、最近、あまり会っていない大和の横顔を思い出しながら、胸を熱くした。
そうだ。
大和さんが残した俺たちのテニス部は、手塚という柱に支えられて今日まで来た。
朝の風にも漂う温い湿気の中。
手塚は、一瞬、眼鏡を光らせて。
言葉を続ける。
「同時に。地震の多いこの日本で、いつまでも倒れないように、しなやかでなくてはならないのだ。強い衝撃で折れるようなことがあってはならない。」
「はい。」
「だから、柱の材木はだな。お前が言うとおり、ヒノキもケヤキも良いのだが、俺はやはり、大和さんの教え通り、スギであるべきだと思う。」
「す、スギですか!」
「そうだ。すぐに成長し、まっすぐ伸びて、しかも長持ちする。スギであるべきなのだ。東大寺大仏殿の柱のようにな。」
「スギ!」
「そうだ。」
「うぃっす!頑張るっす!!」
大石は。
何も聞かなかったふりをして、その場を静かに立ち去った。
手塚が大和部長から教わったのは、一体、どんな教えだったのだろうか。
ただ、越前のまっすぐな眼差しと、手塚の真摯な表情だけが、大石の心に最後の希望を残していた。
「大石先輩!俺!頑張って、スギになるっす!」
朝練終了間際に、そう宣言していた越前が。
「先輩。スギってどうやったらなれるんすかね。」
困ったように聞きに来たのは、その日の放課後のことであった。
花粉だけは撒かないでくれよ。
大石が心の中で小さく呟いたのを。
青学の木材候補生は、まだ、知らない。
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