お昼休みの3年1組の教室では。
手塚の机を囲んで、乾と大石が弁当を広げている。
廊下で四時間目の授業の教師となにやら話し合っていた手塚が、静かに教室に戻ってくると、大石は黙って目を上げ、小さく微笑んだ。手塚の定位置にノートを広げていた乾は、手早くそれを自分の膝の上に移す。
その心遣いを無言のまま受け取って、特段感謝するわけでもなく、だからといって無視するわけでもなく、軽く頷くと、手塚は自らの弁当箱を鞄から取り出した。
窓ガラスを通して見える空は青く澄み渡り。
クラスメイトたちのざわめきが耳に心地よい昼のひととき。
手塚が。
弁当箱を開く。
「……また、ずいぶん寄ったな。」
「ふむ。いつも思うのだが、鞄に入れるとき、弁当箱を縦にするのはどうかと思うぞ。手塚。」
手塚の弁当は、いつでも鞄の中に縦に収納されているため。
地球の重力に敗北せざるを得ない食べ物たちは、その宿命の星の下に。
日々、極度の寄り弁状態を生み出していた。
「鞄の作りを考えれば、縦に入れるのが一番、バランスが良い。」
そう呟くように答えながら、手塚は静かに箸箱の蓋を滑らせる。
「そりゃ、そうだろうけど。教科書とかも入れやすいけどさ。」
「……食べてしまえば同じことだ。」
「お母さんがキレイに作ってくれてるのに、もったいないだろ?」
「残さず食べる。問題ないだろう。」
箸を片手に、ゆっくりと顔を上げた手塚に、それ以上この話題を続けるな、という眼差しを向けられて、大石は苦笑しつつ口をつぐんだ。
まぁ、手塚が良いのであれば、それで良いのだけれども。
手塚と乾と大石は、よく一緒につるんでいるわりに、共通の話題は少ない。
たとえば昨日見たテレビの話をしようにも、エンターティメント系のモノをよく見る大石と、ドキュメンタリー好きの乾、ビジネス英会話以外見ない手塚では、全く会話が成立しないのである。
一体、どうしてあんな変わり者と一緒にいるのか。
友人たちに聞かれて、大石はしばしば閉口する。なぜこんなに居心地が良いのか、自分にだってよく分からないのだから。
茹でたアスパラを箸で摘み上げたまま、大石の視線は手塚と乾の間を彷徨い。
ふと、手塚の手元で、静止する。
「……出るぞ。伝家の宝刀。」
「……ああ。秘技、寄り弁返し……。」
手塚は、箸を広く構えて。
寄っていた弁当を、ぐいっと逆側に寄せ返したのであった。
「……それ、意味あるのか?手塚。」
「やられたら、やり返す。それがテニスだ。」
いや。
それは弁当だ。
大石は魂の突っ込みを入れつつ、アスパラをかじって心を静める。
廊下から菊丸の笑い声が聞こえる。
今日は何をはしゃいでいるのだろう?
「ちなみに。」
いささか棒読み調に、乾がノートのページを繰り始める。
「ああ。あった。これだ。弁当が寄っていたときの、テニス部員たちの対応データ。」
なんでそんなもん、調べてあるんだ?
心の中で問いかけつつ、大石はアスパラをもう一口かじった。
「うむ。何が判明した?」
いつもの冷静さと持ち前の探求心を秘めて、手塚は眼鏡の奥の瞳を光らせる。
「いや、これは大したデータではないのだが。」
謙遜する乾の口調は、それでも語りたくてたまらないという風情が全開で。
「聞かせてくれよ。」
つい、好奇心が手伝って、大石も話の続きを促してしまう。
「まず、大石。お前はいつもきちんと水平に保ったまま弁当を運んでいるな。寄り弁になっているのを見たことがない。」
「そうかな。」
「その几帳面さがムーンボレーの的確なコントロールを生む。」
「そういうことだろうな。」
いや。
違うだろう。
大石はアスパラの最後の一口を飲みこんだ。
「河村もほとんど寄り弁をしないな。俺個人の見解としては、弁当箱の蓋についた飯から丁寧に食べ始める河村が好きだ。」
「うむ。好感が持てるな。」
「タカさんらしいね。」
「菊丸は全く気にしないで、そのまま食べる。」
「無頓着というか、大らかというか。」
「うむ。」
「不二は軽く箸で飯をならしてから食べ始めていたが、それほど気にしている様子もなかった。」
「うむ。不二は天才だからな。」
「まぁ、あんまり気にするようなことじゃないからね。でも手塚。不二が天才なのは、それと全く関係ない。」
「うむ。」
「海堂は、しばらく呆然と弁当箱を見つめていたが、一瞬、激しく哀しげな目をした後、意を決したように努めて平静を装って食べ始めた。」
「うむ。何か葛藤があったようだな。」
「二年生の教室行って、観察してたのか?お前。」
「桃城は面白がって、寄った弁当をもっと寄せようと箸でぐりぐりと押して遊んでいた。」
「うむ。探求心があって良い。」
「……食い物で遊んじゃまずいだろ。」
「越前は、寄ったせいでできたスペースに、大まじめな顔をして他のおかずを押し込んでいた。」
「うむ。省スペースだな。」
「いや、だから食べ物で遊ぶなよ。ってか、喰うときに省スペースを心がけても仕方ないだろ。」
「ちなみに俺は、弁当箱の中における米の密度が、登校途中の重力と遠心力によってどのように変化したのか気になる。」
「エントロピーの法則を適応できるだろうか。」
「ふむ。考えておこう。」
大石は二本目のアスパラガスを摘み上げた。
ぱたり、と。
ノートをたたみ。
再び箸を取り上げて、しばらく考え。
言葉を選びつつ、乾は呟いた。
遠い校庭の歓声にまぎれながら、乾の声が淡々と耳に届く。
「手塚ゾーンはムリか?」
「は?!」
「どういうコトだ。乾。」
大石がアスパラを取り落とすその横で、穏やかに手塚の声が響く。
一瞬、教室のざわめきが収まり、さざめくような笑い声とともに、また暖かい喧噪が辺りに満ちて。
「飯を箸で取るときにだな。弁当箱に残る飯に一定の回転をかけ、そして弁当箱に特定の角度から振動を加えることで、さっきすくい取った場所に飯が転がり込むようにするんだ。そうすれば手塚は同じ場所に箸を突っ込んで同じ姿勢のまま飯を食い続けられる。」
「……うむ。」
「うむ、じゃないって!それはムリだろ!」
思わず。
大石は素で突っ込んでしまった。
「ふむ。ムリか?」
「あり得ないって。」
素で突っ込んでしまった自分が少し恥ずかしくて、大石はうつむき加減にアスパラをかじる。
だが、そのうつむいた視線の先で。
箸の角度を調整しつつ。
弁当箱手塚ゾーンを発動させようとしている手塚の姿に気付いてしまった大石は。
もう一度、アスパラを取り落とした。
「……本気でやろうとしているのか?」
「うむ。」
「ムリだって!どう考えたって!」
「……俺はやる前からできないと諦めるのは嫌いな性分でな。」
大石は、ときおり思う。
どうして手塚は、こういう時に限って、まともっぽい台詞を吐くのだろう、と。
そして、どうして、格好良く決めて欲しい時に限って。
「油断せずに行こう。」
しか言ってくれないのだろう、と。
「手塚語録に加えておくか。」
乾が静かに眼鏡を光らせて、ノートをもう一度手に取った。
3年1組の教室は今日も、優しいざわめきに満ちている。
手塚の弁当箱。
それは。
パンドラの箱。
しかしそこには、寄り弁返しという希望が一つ、残っている。
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