春の野原へ〜八葉篇。

「今年の春が立つ日はいつだったかな。」
 御簾の合間から雪まじりの空を見上げながら、独り言のように翡翠が言う。
「翡翠殿は気が早いのですね。ようやく冬が来たばかりだというのに。」
「年寄りは気が短くてね。」
 泉水の言葉を軽く切り返して、翡翠はまた御簾を下ろした。しんしんと雪の中に静寂が沈み込んでいくような夕闇が、館を包み込んでいる。

 呼ばれたわけでなくとも、格別の用件がない日は、すすんで館に控える八葉が多くなっていた。神子の人望だ、と紫姫は喜んでいる。確かに神子の力は着実に上がってきていたし、八葉たちも彼女が真の神子であると認めるようになった。歯車は上手く回り始めている。深苑の件を除きさえすれば。

「正月より先に春が来たりはしないようですよ。今年は。」
 幸鷹の言葉に、翡翠は小さく笑う。
「それは良かった。立春の日を今年と呼ぶべきか、去年と呼ぶべきか、悩まずにすむね。」

 イサトが火鉢の灰をかく音。
 てもちぶたさだからであろうか、ずっと飽きもせず、火鉢を覗き込んでは、灰をあっちに寄せ、こっちに集めて。火を熾すというよりは絵を描いて遊んでいるように見えた。
 向かいの壁には勝真が寄りかかって、ぼんやりとイサトの手元を眺めている。その隣には無心に刀の手入れを続ける頼忠。

「男ばっかりこんなに集まって、むさ苦しいこと、全くやりきれないね。」

 翡翠の独り言に、泉水ははっと顔を上げたが、格別言い返す言葉も見つからなかったのか、そのまま視線を泳がせた。その姿を見逃す翡翠ではない。少し遊んでやろう、と言った口調で。
「泉水殿。あなたは京に平和が戻ったら、どうするおつもりかな?」
 一瞬、問いの意味を図りかねたように、泉水は目を見開いたが、ふと口元をほころばすと威儀を正し、言葉を紡いだ。
「朝廷にお仕えして、私にできることをいたします。私のような小さき者にすら、できることがあると神子は教えてくださったのですから。」
「ふむ。」
 翡翠は口元に手をやり、しばらく泉水の目を見ていた。だがすぐに相好を崩すと、
「良い答えだね。神子がお喜びになるだろう。」
 とだけ応える。そして目を転じた。

「勝真、君はどうする?」
「ああ?この戦いが終わった後かよ?そんなの想像もできやしない。」
 勇み肌の勝真に、微笑を禁じ得ない翡翠。
「想像できなくても、その日は来るだろう。神子がいる限りね。」
「まぁ、そうかもしれねぇけどよ。」
 未来を諦めない神子の名を出されては、戦いの後を否定することなどできない。食わせ物の翡翠の網から逃れようにも、退路を塞がれたも同然で。何か適当なことを答えないといけない。勝真は少し思案したが、ぶっきらぼうにこう言った。
「おまえが海賊をやめねぇんなら、俺はおまえを逮捕する。」
「ははは。いいね。でも私を捕まえられるかな。京職殿。」
 軽く返されて、勝真もにやりと笑った。確かに追いかけっこをするのなら、彼の手に負えるような相手ではないのかも知れない。

「頼忠、おまえは?」
 刀の手入れの手を休めて話を聞いていた頼忠に、勝真が尋ねる。
「うむ。」
 水を向けられるとは思っていなかったのであろう。しばらく、目を落として、考え込んでいた頼忠であったが、目を上げ、口を開く。
「神子殿をお守りするお役目を、仰せつかりたいと思う。」
 間髪を入れず、勝真。
「おまえ、そうやって人から命令されたがるのやめろよ。」
 もちろん、受けて立つ頼忠。
「武士とはそういうものだ。」
「だからって、おまえなぁ、加減ってもんがあるだろ。」
 青龍の二人がいつものようにいさかいを始め、慌てたように幸鷹が仲裁に入ったのを確認し、翡翠は肩をすくめ、その騒ぎの中でもひたすら火鉢を引っかき回しているイサトへと興味を移した。

「イサト、君は?」
「ん?なんだよ。」
 火鉢から目も上げない。
 翡翠は今日何度目かの微苦笑を浮かべながら、もう一度問いかける。
「八葉の務めが終わったら、君はどうするつもりだ?」
「あ?」
「将来、何かやりたいことはないのか?」
「こんな末法の時代に、将来なんて考えても無駄だろ。」
 言い切って、一瞬だけ目を上げ、また火鉢に目を戻す。
「そう言うな。末法の時代であっても、神子はあんなに頑張っているじゃないか。」
「まぁ、あいつは頑張ってるよな。……将来、将来かぁ。」

 勝真と全く同じ手に引っかかる。神子の名に、すぐに態度を改めてくるとは、乳兄弟だけあって、思考回路が似ているのだろうか。なにやらぶつぶつとつぶやきながら、イサトは火鉢の灰を平らになおした。

「そうだな。将来、なぁ。俺、出家して、ちゃんとした僧兵になって。それでさ、東寺なんかじゃない、もっとずっとずっと小さい寺に住んでさ。春になったら、新しい僧衣を下ろして、若い僧兵とか、近所のガキとか連れて、散歩に行ったりするんだ。」

 火箸で平らにした灰にぐるぐるとなにやら描き込みながら、言葉を選ぶ。

「歌とか歌ってさ。川で禊ぎ、っての?なんかそういうのとかやってさ。花摘んだり、走り回ったりして。そしたら、なんとなく気持ちよさそうじゃん?」

 そして、もうこれで話は終わり、とばかりに言葉を切った。
 翡翠は羨望に似た溜息を漏らす。

「いいね。イサト。それこそが今浄土なのかもしれないね。」

 そして少し、冗談めかして続ける。
「私は年を取ったら、君の寺に住ませてもらおうかな。」
 それは、間違いなく、イサトの言葉に対する最大限の賛辞だった。
 しかし。
 イサトは迷うことなく真顔で翡翠を見上げ。

「やだ!俺はおまえのことなんか、嫌いだ!」

 と、問答無用にはっきりと答えてしまった。
 翡翠の頬が一瞬にして引きつり、額が青ざめて。
 その晩、なにやら得体の知れない悪夢にイサトがうなされていた、という噂が、八葉の間でまことしやかに流れたのは、理由のないことではないに違いなかった。

 まだ京に穢れの満ちていた年の暮れのお話である。


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