目が覚めたら、そこは、おとぎの国だった。
「英二……英二……起きてよ。」
「ふにゃ?……不二ぃ?」
「何、寝ぼけてるの?早く起きて!きらきら光る小石を集めなきゃ!」
耳元でささやく不二の声に、薄目を開いた菊丸英二は、見覚えのない天井にはっとした。
「あれ?ここ、どこ?」
「どこって、僕たちの家じゃない!」
「僕たちの……家?」
丸太造りの低い天井。
薄暗い部屋の中に、うっすらと遠い朝日が射し込んでくる。
菊丸は薄い布団に不二と二人、丸まるように眠っていて。
「何、きょとんとしてるの?英二?このままじゃ、僕たち、大石と……乾に捨てられちゃうんだよ?」
「大石と乾に……捨てられる?!」
「昨夜、二人が相談してるのを聞いちゃったじゃない。今日、僕たちを森の奥に捨てて帰るって。」
「な、なんで??」
「不景気だからサバイバルができないと、子供は生き残れないって、乾が大石に言ってたでしょ?小さいうちからサバイバル特訓をしなきゃダメだって。大石は人が良いから、すぐ信じちゃったし。」
「……ねぇ、不二?子供って、俺たちのこと?」
きょとんと。
菊丸は目を見開いた。
その言葉に、不二もまた、きょとんと、首を傾げる。
「当たり前でしょ?僕たちは大石の子供じゃない!」
「……大石の子供?」
「大石は僕たちのお父さんでしょ!」
「じゃあ、乾がおか……お母さん……なの?」
「英二!あんなやつをお母さんなんて呼んじゃダメだ!僕たちのお母さんは、お母さんはタカさんだけだよ!」
「た、タカさんがお母さん……。」
「優しいタカさん……寿司職人の修行に行ったまま帰ってこなくなっちゃうなんて……。」
不二の声が、一瞬、涙にかすれて。
家の外から、小鳥のさえずりが聞こえる。
「そうだ!英二、早く!小石を拾いに行くんだ。そうじゃなきゃ、生き残れない!」
「う、うん!分かったよ。不二!」
足音を忍ばせて、狭い小屋からこっそり抜け出す。小屋は薄暗い森の中にぽつんと立っていた。
ぼうぜんと、辺りを見回した菊丸は、はっとして。
その風景を良く知っている、と思った。
そうだ。
これは、小さい頃、何度も読んだ絵本の中の風景。
ここは、「ヘンゼルとグレーテル」の世界だ。
だとしたら、俺たちは今日、お父さんに連れられて森の奥に行くんだ。
そして置き去りにされて。
でも、ヘンゼルが目印代わりに落としていった小石をたどって、家に帰るんだっけ。
「ねぇ、不二。乾って、継母?」
「継母っていうか。タカさんが修行に行っちゃった次の日に、いきなり現れて『俺がお母さんである確率は、12%』とか言って、居着いちゃったんじゃないか。」
「……12%って、むちゃくちゃ低いじゃん。確率。」
……ヘンゼルが不二なら。
俺はグレーテルなのか??
不二は真剣な眼差しで、白い小石を集めて、ポケットに詰めている。
そうか。よく分からないけど、俺は、絵本の世界に入り込んじゃったんだ。
ここでは、これが現実で……。
俺たちは生き残るために、一生懸命、頑張らなきゃいけない。
「お〜い。英二!不二!森に行くぞ。」
そして、相変わらず、ムダに爽やかな大石に連れられて。
俺と不二は、森の奥へと入り込んでゆく。
お話は、記憶の通りに進んだ。
一度は家に帰り着いた菊丸と不二は、再び、乾の策略にはまり、森の奥へと連れて行かれる。
今度は、小石を集めて、道標を残す余裕もなく。
道すがら、不二が落としていったパンのかけらは、みな、小鳥たちに食べられてしまった。
夜が更ける。
お腹を空かせた二人は、森の中をあてどなく、さまよい歩く。
「英二。ごめんね。僕がちゃんと帰り道を覚えていなかったから……。」
「そんな!不二のせいじゃないよ!俺だって悪い!」
「でも、僕はお兄ちゃんなんだから……もっとしっかりしなきゃ。」
「俺の方が、誕生日、早いんだけどな……。」
「何言ってるの?英二は僕の妹だよ!」
木の根につまずきながら。ふくろうの声に怯えながら。
二人は手をつないで、夜の森をおそるおそる歩いてゆく。
「絶対、お菓子の家があるはずなんだ!」
「お菓子の家?」
「そう!俺たちは絶対、そこにたどりつくはずなの!」
「……ふふ。英二ってば、最近、おかしなことばっかり言ってるね。」
しかし。
実際、彼らはたどりついた。
お菓子の家、ならぬ、おかしな家、に。
「……玄関に『油断せずに行こう』って看板が立っている……。」
「なんじゃらほいほい……。」
ここには悪い魔法使い(魔女だっけな?)が住んでいるはず。
で、ヘンゼルが悪い魔法使いに食べられちゃいそうになるんだけど。グレーテルの機転で二人とも助かるんだ。うん!俺が頑張らなきゃ!
とにかく、家に入れてもらわなくちゃね。
トントン!
「すみません!誰か、いませんか?!道に迷っちゃったんです。一晩、泊めてください!」
がちゃり。
立て看板の横の扉が重々しく開く。
そして、抑揚を押さえた低い声が彼らを出迎える。
「……子供か。入れ。」
出てきた悪い魔法使いは。
案の定、どう見ても手塚だった。
疲れと空腹で、部屋の隅に座り込んだ二人の子供を見下ろして、しばらく無表情に何かを考えていたらしい悪い魔法使いは。
「……非常用の乾パンがある。」
唐突に、登山用のリュックから、乾パンを取り出して、二人に手渡した。
「緑茶は、飲めるか?」
疲れ切った二人は、乾パンと緑茶という微妙な組み合わせなど、全く気にならないほどぐったりして、黙って頷くほかなかった。お腹を満たすだけ満たすと、二人はもたれあうようにして眠りに就く。魔法使いが毛布をかけてくれたことに気付かないほどに、深い眠りに。
そして翌日、早朝。
大石&乾は、家でのどかにお茶を飲んでいた。
「帰ってこないな……。そろそろ迎えに行った方が……。」
「それじゃサバイバル特訓の意味がないだろ?大石も河村も甘やかしすぎだ。」
「だって、心配じゃないか。」
「……今日中に、子供たちが帰ってこない確率は95%、データは嘘をつかないよ。」
「な、何だって?!」
驚いた拍子に立ち上がった大石は、椅子を倒してしまい。
慌てて、きちんと、椅子を直し、乾に向き直った。
「そ、そんなに高いのか?!俺、やっぱり、迎えに行ってくる!!」
ばたん!!
そう言うが早いか、大石は、早朝の森の奥へと飛び出していった。
「全く。甘やかしすぎだよ。大石は。う〜ん。今、迎えに行っても、大石は子供たちに、河村一人分届かない。お父さん、お手並み拝見、ってとこかな?」
そして、乾は。
のんびりと、洗濯物を干す。
今日もなんともいい天気だ。
夜が明ける。
子供たちは、おかしな家の隅で、与えられた毛布にくるまって、肩を寄せ合って朝を迎えた。いや、目が覚めたのはすでに、昼近い時間であった。
窓からの光に照らされて見る家の中は、ますます、奇妙な空間で。
登山と釣りの道具しか置いていない殺風景な棚。
壁には「俺たちの代では全国へ行こう」と書かれた模造紙。
柱には「柱になれ」というポスターが貼られ。
「……なんじゃらほいほい。」
しかし。
部屋の中を見回した不二は、同じ毛布の中の菊丸に身を寄せて、少し、困ったように笑った。
「英二。とんでもないところに、来ちゃったね。ここは、人食い魔法使いのおうちだよ。」
「……人食い魔法使い……!」
そうだった。
お菓子の家の魔法使いが子供たちを助けるのは、太らせて食べるためだった。
でも、あんな乾パンと緑茶じゃ太れないぞ。
そう思いながら、目を上げると。
手塚が、いや、魔法使いが、無表情のまま二人を見下ろしていた。
「いつまで寝ている!罰として、家の周り、十周だ!走ってこい!」
「「は?!」」
悪い魔法使いは、不条理にも、淡々と、起き抜けの腹ぺこな子供たちにランニングを命じる。
「鬼〜〜!!」
しかし、条件反射とは怖いもので。
手塚の、いや、魔法使いの言葉と同時に、菊丸は戸口を飛び出して、走り出していた。
不二も違和感なく、一緒に走り出す。
そのとき。
「今日はごちそうだな。」
二人は確かに、魔法使いがつぶやくのを、耳にした。
早朝の森の中を、軽やかな足音が駆け抜けてゆく。
でも、こうやって走っていると。まるでいつもの部活みたいだな。
菊丸は、ぼんやりと隣を走る不二の横顔を見やった。
「……英二。黙って聞いて。」
「うん?」
「たぶん、僕の方が英二より、可愛くて美味しそうだから、きっと魔法使いは僕を先に食べると思うんだ。」
「……え?」
「英二は……魔法使いが僕を食べている隙に、逃げて。必ず生き延びて、お父さんのとこに帰るんだ。良いね?」
「……でも、でも、そうしたら……。」
「黙って聞いてって言っただろ!」
不二が静かに開眼した。
「約束して。英二……。僕を煮込む鍋には……粉唐辛子を2kg入れてね。」
「……。」
十周走ることが、こんなに短く感じられた日はなかった。
二人は、言葉もなく、魔法使いのおかしな家に戻ってゆく。
俺が、必ず、不二を助ける。そう、絶対に、俺は不二を助ける。
菊丸は、繰り返し、繰り返し、自分に言い聞かせた。
でも、どうやって?
たしか、絵本の中では、火の燃えさかるかまどの中に悪い魔法使いを閉じこめちゃうんだったけど。
手塚にそんなこと、できないよ、俺。
どうしよう……。どうしよう?大石。
家の中は、静かだった。
「戻ったか。手を洗って、湯を沸かせ。」
「……はい。」
魔法使いは、なにやら怪しげな本を読みながら、視線一つあげずに、子供たちに命じる。
かまどに火をおこして、大きな鍋に水を入れ。
穏やかに揺れる水面に、二人の姿が映し出されて。
そこへ。
「毎度〜〜!河村寿司です〜〜!」
出前が、届いた。
「た、タカさん?!」
「不二?!それに、英二!どうしてここに居るんだ?!」
子供たちは戸口に立つ、偉丈夫の元へ走った。
「悪い魔法使いに捕まっちゃったの!食べられちゃうんだ!助けて!タカさん!」
地獄に仏とはまさにこのこと。二人は、泣きながら河村にしがみつく。
彼らの言葉に、はっとしたように。
魔法使いと河村は、同時に叫んだ。
「そ、そうなのか?!」
ちょっと待て。
なんで、手塚まで、びっくりするんだよ?
菊丸は、河村にしがみついた手はそのままに、魔法使いの方を振り返る。
しかし。
魔法使いは、無表情のまま、財布を取りだして。
淡々と、河村に、寿司のお代を払った。
そのとき、森の向こうから響いた、ムダに爽やかな声。
「タカさん!こんなところに居たのか!」
暖かいその響きに、三人は一斉に振り向いて。
「大石!」
「大石〜!」
「大石〜〜〜ぃっ!!」
「あ!英二!!不二!!二人とも、無事だったんだな!」
森の中を駆け回って子供たちを探していた父、大石が合流し。
親子四人、唐突に感動の再会。
魔法使いは、そんな場面を気にする様子もなく、淡々と、財布をしまっている。
「さて、湯も沸いた。茶を淹れて飯だ。」
独り言のようにつぶやく魔法使いは、そそくさと、昼飯の支度を開始した。
そこへ。
ストップウォッチを睨みながら。
「そろそろ、寿司を食べ始める時間だ。」
と、ノートを片手に逆光眼鏡が現れたのであった。
「い、乾?!どうしてここへ?」
「寿司を食べにきた。」
「……そ、そうか。」
「ふむ。河村一人分、何とか間に合ったみたいだな。大石。」
「河村一人分??なんだよ?それ。」
親子四人に継母乾が加わって。更に親子水入らず。
魔法使いは、淡々と、お茶を淹れている。
柔らかい鳥のさえずりが聞こえる。
そして。
穏やかに、魔法使いは言った。
「今日は、ごちそうだ。」
「……そ、そうだね。魔法使いさん。」
そう。
今日のランチは、寿司パーティであった。
「……不二。菊丸はまだ寝ているのか?」
「うん。寝顔、無防備で可愛いよね〜〜。」
「だからといって、菊丸の寝言に適当な相槌を打つのはやめてやれ。ずいぶん、うなされてるじゃないか。」
「どんな夢、見てるんだろうね。あ、そろそろ起床だ。起きてよ!英二!」
「……ふにゃ?不二ぃ?ここ、どこ?」
「どこって、修学旅行中でしょ!起床時間だよ!」
「うにゃ……あと、二分したら、起こして……。俺、あなご食ってくる……。」
「は?」
青学修学旅行の朝。
寝起きの良い菊丸が、起床時間になっても起きられなかったのは、タカさんのお寿司が美味しかったせいだと、彼は強く主張したのだが。
誰にも認めてもらえなかったのは、大変、残念なことであった。
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