省エネ計画〜不動峰篇。
不動峰の新生テニス部では、朝練の終わった後には、いつでも橘さんのありがたいお話の時間がある。
校長の訓辞など、一度たりともありがたいと感じたことのない彼らにとって、橘さんのお話は本当にありがたく、もったいない、感動的で、素晴らしいものだった。神尾など、週に一度は、途中で泣き出しそうになるし、伊武もこのときばかりはぼやきもせず、沈黙を守るほどであった。
全員が、じっと橘さんの顔を見つめ、一言も漏らさぬよう、話に聞き入っているその姿を見たら、校長はきっと。
「そんなに大人しくできるなら、私の話も静かに聞いてくれ!」
と、膝を抱えてめそめそ泣き出すに違いないくらい、真剣な眼差しで、彼らは橘さんを見守るのである。
しかし。橘さんのありがたいお話には、一つ、問題点があった。
それは、まぁ、些細なことなのだが。
簡潔に説明すれば。
意味がよく分からないのである。
「つまり、そういうことだ!」
その日のありがたいお話は、開口一番、結論だった。
橘さんのほくろは、今日も素敵に輝いている。
「俺たちはそうやって、ここまで来た。そうじゃないか?」
「「「「はい!!」」」」
「他の学校がどうあろうと、俺たちには俺たちのやり方がある!!」
「「「「はい!!」」」」
「だから、俺たちは今、あえて、脱省エネを宣言すべきだろう。違うか?」
「「「「いいえ!今こそ、脱省エネを宣言すべきです!!」」」」
相槌は打ったモノの。
話が終わってから、二年生同士で小突き合って確認した結果。
誰一人、橘さんの意図は分かっていなかった。
ここからが、不動峰テニス部二年生の、健気なところである。
お昼休み。
彼らは桜井の教室に集合する。
別に、桜井に意味があるのではない。彼のクラスが、学年のど真ん中にあるというだけなのであるが。
とにかく、集合する。
で。
ここから先は、侃々諤々喧々囂々の大騒ぎである。
「脱省エネって、結局、何だ?桜井、辞書引いてみろよ。」
「あのな、石田。出てないよ。そんな単語は。」
「文字通りの意味じゃねぇの?脱は『ぬぐ』だろ?森。」
「脱ぐ省エネ??それってどういう意味だよ。内村は脱衣麻雀のやりすぎ!」
「アキラ、うざい。泣くな。そんなコトで。」
「だって、橘さんがせっかく、俺たちのためにいろいろ話してくれたのに……。」
「橘さんの視界に、お前が入っていたかどうかは、知らないけどな。」
そんなとき。
お昼休みの喧噪を抜けて、彼らを助けに来てくれるのは、アイドル天使☆橘杏である。
「みんな〜。何、大騒ぎしてるの?」
「「「「杏ちゃん!!」」」」
杏ちゃんの笑顔は、橘さんのほくろの次に輝いている、というのが、不動峰テニス部中二の共通認識であった。
「脱省エネ??なにそれ?アキラくん。」
「今朝、橘さんが言ってたんだ。」
「お兄ちゃんが??また、訳分からないこと、言っちゃってるんだね。今夜、どういう意味か、聞いておくよ。」
「「「「ありがとう!!!」」」」
「ううん、良いってば。お兄ちゃんが迷惑かけてるお詫びだよ。」
そう言って、にっこり笑う杏の腕は、半袖の制服に映えて、柔らかく白かった。
橘兄妹は、本当に素敵だ!
部員たちはうっとりと、再認識した。
神尾などは、また半泣きである。
その晩の橘家。
夕食も終わり、兄が部屋に戻ったのを確かめた杏は、静かに扉をノックする。
「お兄ちゃん?」
「杏か?」
部屋の中は、散らかっているほどでもなく、殺風景なまでに片づいているというほどでもなく。とはいえ、ベッドに数冊の雑誌が積んである他は特に出しっぱなしのものも見あたらず、中学生男子としてはかなりきれいといえるのかもしれない。橘桔平の部屋は、そういう空間である。
杏は、兄のベッドにぽふっと腰を下ろす。
夜の静けさの中で。
机に向かっていた桔平が、椅子ごと、ベッドの方へ、向き直った。
「どうした?杏。」
「ん、聞きたいことがあって。」
「何だ??」
「今朝、お兄ちゃん、テニス部でなんか、『脱省エネ宣言』したんだって?」
「あ?ああ。誰かから、聞いたのか。」
「うん。みんなから。」
兄はいつも通りである。
たぶん、マジボケなんだろうな。と。
杏はのんびり構えた。
「それって、どういう意味?」
「意味??……それは、文字通りだぞ?」
「……脱ぐ省エネ?」
「違う!!」
「文字通りじゃ、意味、分からないよ。」
兄は、思考回路を全てすっ飛ばして、いきなり結論に入る、直観型思考の人間である。
そして、世界中とその直観型思考が共有できると信じてしまえる、極めて前向きな考えの持ち主でもある。
「そ、そうか?分かりにくいか?」
「ってか、全然、分かんない!」
「分からない……か?」
妹の言葉に、橘は静かに首を傾げ、しばらく何かを考えていたようであったが。
理路整然と、事情を説明し始める。
「……あのな、杏。不動峰のテニス部は、少し華奢な選手が多いんだ。頑丈そうなのは俺と石田くらいだろ。」
「そうだね。」
「体も小さくて、体重も軽いやつが多い。中二だからかと思ったが、青学の桃城とか、氷帝の鳳や樺地を見ていると、中二なのは言い訳にならないだろう?」
「……うん。」
「そこでだ。もっとエネルギッシュにダイナミックにパワフルに、戦うことができたら、不動峰のテニス部は、もっと強くなれる、と思ったんだ。もっとパワーを!もっとダイナミズムを!もっとエネルギーを!というわけで。」
「『脱省エネ宣言』?」
「ああ。」
これで、杏も納得してくれるだろう、と、橘が妹の目を直視した、その瞬間。
杏は、目に大粒の涙を浮かべて、兄を睨み付けた。
「ひどいよ!ひどすぎるよ!お兄ちゃん!!」
「な、何だ?」
「お兄ちゃんは分かってない!みんな、お兄ちゃんのこと、信じているのに、お兄ちゃんはみんなのこと、全然、信じてない!!」
そう叫ぶと、ベッドの枕元に積んであった雑誌を一冊つかんで、兄に投げつける。
「ま、待て。杏!落ち着け!!」
「みんな、一生懸命、頑張ってるんだよ!それなのに、今のままじゃダメだって言うんだね?ひどいよ!お兄ちゃん!」
「待て!杏!俺はあいつらがもっと強くなれると信じているから……!」
「そんな言い訳、聞きたくない!!」
「杏!」
ばしっ!!
二冊目の雑誌が飛んでくる。
「お兄ちゃんは大きな声で、姿勢正しくはきはき話す深司くんが見たいのっっっ?!」
「……はきはき話す深司っ!?」
「体重100キロ以上で、『リズムにHigh!!』とか叫んじゃうアキラくんが良いのっっっ?」
「重量級スピード・エースっ……?!」
三冊目の雑誌が投げつけられる。
杏は、もう、泣いているんだか、怒っているんだか、分からない状態で。
ベッドの枕元には、まだ二冊の雑誌が残っているのだが。
そのままの勢いで、四冊目を手に取り、力任せに杏が投げる。
紙一重のところで避けながら、桔平はなんとか妹の怒りを静めようと必死の様子。
だが、弁解のために口を開こうにも、その余裕はなく。
「190センチの身長を活かして、相手の顔面を狙っちゃう内村くんが好きなのっっっ?」
「そ、それはっ……!」
「一撃でイージス艦を撃沈しちゃうような波動球を打てる、石田くんが欲しいのっっっ?」
「なぜ、イージス艦っ……?!」
杏は、最後の一冊を手に取った。
その雑誌は。
クラスメイトに借りたものとはいえ。
橘桔平にとって兄の尊厳に関わるような、「妹に見られたくないタイプの雑誌」であり。
「何これ!?」
一瞬、手に取ったその表紙に、杏は凍り付く。
頬を紅潮させて、怒り、心頭に発して。
いや、怒りの方向が全く変わってしまったというのが、正解であったかも知れない。
「脱省エネ」など、忘れてしまったかのように、雑誌をぱらぱらとめくった杏は。
「お兄ちゃんのばか!!すけべ!!最低!!もうっ、信じられないっっ!」
案の定、雑誌を力一杯、橘の顔に目がけて、投げつけ。
こればかりは橘も、よけ損なって、直撃を喰らったのだという。
ばたん!!
大音響とともに、扉を閉めて飛び出してゆく妹の背を見ながら。
「力任せにエネルギーを使いまくるばかりが能じゃないんだなぁ。」
と。
橘桔平は、ぼんやりと考えを改めた。
不動峰の「脱省エネ宣言」が撤回されるのは翌朝のことである。
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