お昼休み。
三年生の教室で、跡部の言葉を聞いた宍戸と忍足は、目を見開いて黙り込んだ。
「あ〜ん?なんだ、その目は?」
不満げな跡部に、返す言葉もない二人。
まるで人を小馬鹿にしたかのように、カラスが鳴きながら窓を横切ってゆく。
「……あのな。跡部。その話、監督に通したんか?」
「いや。まだだ。」
「……そっか。じゃあ、監督に許可取ってからにしろよ。」
「……仕方ねぇな。お前らがそう言うなら、そうするか。」
二人がかりの説得が功を奏し。
お昼休みが終わる頃には、跡部は、その計画を断念したかのように見えた。
汗ばむような、初夏の窓辺に、青葉の陰が映って。遠く鳴き始めた蝉。校庭の向こうからは、夕の訪れを憚らず、鶏が叫ぶように時を告げる。
その日はたまたま三年生だけが、いつもより早く練習が終わって。
ざわざわと部室で着替えをする同級生たちに、跡部は静寂を要求した。
「決めた。」
その一言で。
何が決まったか、分からないものの、みな、沈黙して、一様にそちらを振り返る。
部室が100人の村だったら、95人は嫌な予感を感じており、45人は逃げ出したい衝動と戦い、5人は失神寸前で、1人はすでに意識が薄れ始めている。
そんな中、忍足と宍戸は小さく溜息をついた。
「何を決めたの?跡部!」
嫌な予感を感じなかった数少ないメンバーである向日が、嬉々として尋ねる。
ちらりと、目線だけを向日に向けて、跡部はそのまま言葉を紡いだ。
「青学や山吹、ルドルフで省エネが流行っていると聞いた。」
「うん!」
元気な相槌は、ジロー。彼もまた、うきうきと跡部の決定に耳を傾けている。
「なので!!氷帝テニス部でも省エネをしようと思う!!特にルドルフや青学などにはもう二度と負けられないからな!!」
「おお!!」
向日とジローが跡部を囲んで、拍手をしている。
うん。
ここまでは良いんだ。ここまでは。
宍戸と忍足は静かに視線を交わす。その目配せに気付いて、滝が小首を傾げたが、そのまま視線を跡部に戻した。ちなみに、滝も跡部の決定に嫌な予感を感じない方のグループである。
「省エネについては、監督にも許可を頂いた。」
「いぇい!!で、何するの?何するの?跡部!!」
「ああ。氷帝テニス部では、省エネのために……。」
そこで跡部は一瞬、言葉を切り、全員の顔を見回して、深く頷いて見せた後。
はっきりとした口調で、こう言った。
「部室で、ネコを飼おうと思う!!」
「おおおお!!」
向日とジローが拍手をする陰で。
他の三年部員は全員、目眩を感じていた。
一体、それのどこが省エネなんだ……。
部室の床に砂埃の足跡を付けて、跡部は颯爽と、帰っていった。
言いたいことを言いきった満足を体中に漂わせながら。
静かな夕焼けが、彼の行く手に柔らかくきらめいている。
跡部の去った部室の片隅で、宍戸が忍足の袖を引く。
「……あのな。長太郎が樺地から聞いた話なんだけどな。跡部は親に頼まれて、親戚の家の仔猫の引き取り手を捜してたらしい。で、どうしても一匹、引き取り手が見つからなくて。」
「……で、部室で飼おうっていうんか?」
「……ああ。」
「……それじゃ、ただ単に、跡部が楽なだけやん。」
「……だから、省エネなんだろ……。」
宍戸の結論に、忍足は大人しく脱力した。
「さよか。」
忍足が反論しないので、宍戸も諦めて自分の結論に脱力した。
「そういうことだよな……。」
しかし、彼らは伊達に跡部の友達を三年間もやっていない。
あっさりと諦めると、いつも通りの笑顔に戻り。
「じゃ、帰るか。」
「そだな。」
何事もなかったかのように、家路に就く。
遠く光る夕焼け雲の向こうに、夏の予感を感じながら。
翌朝。
朝練のために着替えていた部員たちは、机の上に置かれたバスケットの中で、時折思い出したように声を上げる仔猫に、びくびくと視線を走らせていた。
籐のバスケットに、薄緑のふかふかなバスタオルを敷き、薄茶色の仔猫は何も怖くないかのようにその大きな目を見開いて、うごめく少年たちをきょろきょろと見回していた。
なんだか分からないが。
とにかく、部室にネコが居る。
「にゃー。」
跡部さんが連れてきたらしい。
三年生の先輩たちによれば、部室で飼うらしい。
それが省エネらしい。
「にゃー。」
……省エネって、何??
部員たちの困惑を余所に、跡部は機嫌良く、着替えを終えて、お気に入りのラケットの調子などを見ている。
朝の空気は、中学生のエネルギーであっという間に蒸し暑い部室を作り出した。床に置いた鞄を引きずるたびに、じゃりじゃりと埃っぽい音がする。
ばたん。
「おはようございます!」
いつも、朝稽古の後に駆けつけるため、時間ぎりぎりに部室に姿を見せる日吉。
次期部長との呼び声高い彼の登場に、一二年生はざわめいた。仔猫と日吉を見比べて、その後、跡部に視線を走らせる。
日吉が、仔猫をなんとかしてくれるのではないか、と。
跡部はちらりと日吉を見ただけで、また自分のラケットに視線を戻し。
日吉は跡部に黙礼をすると、部室を見回して。
仔猫を発見し。
きぃぃん。
と。
なぜか、仔猫を見据えて演武テニスの構えを取った。
「長太郎!ネコだ!」
「あ、ああ。ネコだね。」
仔猫もまた、日吉の奇怪な姿勢に釘付け。
しばらく一人と一匹は見つめ合い。
ガットをいじっている跡部以外。
誰も動くことのできない、張りつめた空気が流れ。
秒針の音をはっきり聞き分けられるような、静寂の時が流れ。
そう。仔猫が沈黙を破るまで、部室は凍り付いていた。
「にゃー。」
ようやく我に返った鳳が、なんとか日吉を此岸に引き戻そうと声を掛ける。
「……日吉、お前そんな身構えて……ネコが怖いの?」
しかし、鳳の困惑した声にも、反応せず、日吉は仔猫と見つめ合って。
仔猫は、根負けしたかのように、ふにゅ、と小首を傾げ。
甘えたように鳴いた。
「にゃーにゃーにゃー。」
その瞬間。
日吉が動いた。
古武術特有の静かな動きで、滑るように仔猫を掬い上げると、右の手のひらに載せて。
「滝さん!ネコです!」
「んー。ネコだねー。」
滝に仔猫を見せびらかした。
しばらく、手に仔猫を載せた日吉と睨み合っていた滝は、跡部の方に向き直ると。
「ねぇ、跡部。日吉がネコ、欲しいってー。」
と、普通に、極めて普通に告げた。
「そうか?じゃあ、連れて帰れ。」
ラケットから目も上げずに、応じる跡部。
日吉は、真顔で、しかしどこか嬉しそうに、手のひらに仔猫を載せたまま、古武術の構えを取った。
「日吉、嬉しいってさー。」
「そうか。可愛がらねぇと、しめるぞ。日吉。」
跡部は相変わらず、目も上げずに応える。
「……二年生は、どうもコミュニケーションが苦手なやつが多いな。」
「樺地と日吉だけやろ?日本語ができないんは……。」
宍戸と忍足は。
文句を言うような顔をして、日吉が仔猫を引き取ってくれたことを、心から喜んでいた。
「他のやつなら欲しがるかもとは思ったが。日吉が連れて行くとはな。」
「予想外やったな。」
そんなわけで、氷帝学園テニス部の省エネ計画は。
何の省エネだったか分からないままに、無事に終了した。
朝こそは鳴かねばと、凛とした鶏の声が、校庭の向こう、鶏小屋から響いてくる。
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