省エネ計画〜青学篇。
「あっ。痛っ!!」
ちらちらと埃が舞い飛ぶ冬の部室。
寒さからか、迫り来る夜の気配に背中を押されるせいなのか、少し慌てたように帰り支度をする部員たちの中で。
菊丸の小さな悲鳴に気付いたのは、周囲にいた親しい友人だけだった。
「どうしたのっ?英二?!手塚の前髪が刺さった??」
心配そうな不二の言葉に、手塚は思わず自らの前髪を引っ張ってみたが。
どうやら菊丸は、手塚の前髪を喰らったわけではなさそうで。
「ぴりって来たよ〜。静電気!!俺、あれ、しょっちゅう、喰らうんだよね〜。」
ロッカーで痛い目をみたらしく、右手をぱたぱたと振りながら、眉をひそめる。
「そっか。今日は乾燥しているからね。」
河村がおそるおそる、ロッカーに手を伸ばして、菊丸のために扉を開いてやった。
菊丸は弾かれたように、背後の河村に向き直り。
「あ。ごめん。タカさん!ありがとう!!」
タカさんは良いやつだなぁ、と大石秀一郎は心から思っている。
本当に良いやつである。
「ねぇ、ねぇ、不二?今って、エコロジーの時代じゃん?」
「うん。そうだね。」
「そんなご時世にさ!静電気をこんな無駄遣いして良いわけ?」
「ん?」
「もったいないじゃん!静電気!!これって電気の無駄遣いじゃん!」
もちろん、彼らは、だてに三年、菊丸の友達をやっているわけではない。
こんなとき、菊丸が大まじめに環境問題を考えていることくらい、よく分かっている。
不二はゆっくりと、着替えを続ける菊丸を振り返り。
微笑んだ。
「英二のおうちは、静電気、使わないの?」
「え?」
「ほら、普通はね。きんぴらに唐辛子を入れるでしょ?あれで、ぴりっとさせるわけだけどね。うちではよく、静電気を入れるんだよ。静電気も結構、ぴりっとするじゃない?良い隠し味になるんだ。」
もちろん、彼らは、だてに三年、不二の友達をやっているわけではない。
こんなとき、不二の話の腰を折ることがどんなに恐ろしいことか、よく分かっている。
菊丸は目を大きく見開いて、不二を見つめ。
微笑んだ。
「そっかぁ。そんな使い方があったんだ!俺、全然、知らなかったよ!」
「英二のお母さんは、お料理上手でしょ?使ってるのかもね。英二が気付いていないだけで。」
「そうだよね!今日、家に帰ったら聞いてみようっと!!」
不二と菊丸が帰っていった後。
嵐の過ぎ去った後のように、部室は冷え切った冬の沈黙に閉ざされて。
誰も、何を言って良いのか、分からないまま、時を過ごしていたが。
手塚が重々しく、口を開いた。
「今の不二の話だが……。」
手塚の視線が、転々と一同の顔をめぐり。
どうリアクションをとって良いモノか、分かりかねて、困惑した表情を浮かべたまま、手塚の視線をそれぞれが何とかやり過ごした中。
唯一、目を逸らさなかった乾を見据え、手塚の視線は一度、止まった。
そして、言葉を選ぶ。
「あれは、どうだろうな?」
「……静電気の話か?」
「ああ。あれは……どこがおかしい?」
いや、てんで頭っからおかしいだろう……。
大石秀一郎は思った。心の底から思った。
だが、手塚が聞いたのは、自分の思っているような浅はかな次元ではないのかも知れない、と思い直し、静かに乾の返答を待つ。
「おかしいのは……そうだな。うむ。『ぴりっ』という擬態語で表現される感覚を、痛みと辛みで混同している点がおかしいんじゃないか?」
「混同している、のか?」
「そうだろう?『じりじり』追いつめられるときと、『じりじり』焼かれるときとでは、同じ擬態語を用いていても、表現される状態は全く違うからな。」
「しかし、それらは、感覚の中で、何か同じように受け止められる要素があるから、同じ擬態語で表現されているのではないのか?」
……なんか。
そういう問題だったんだろうか……??
大石秀一郎は思った。
しかし、インテリ眼鏡二人組は、お構いなしにトークを炸裂させる。
「では、静電気と唐辛子は人に同じ感覚を与えていると言うのか?」
「全く同じではないが、同じ類に含まれる感覚的要素を共有しているはずだ。」
「なるほどな。そうかもしれない。」
「であれば、不二の言うとおり、唐辛子の代用品として、静電気を用いることができるという可能性を否定することは、不可能ではないのか?」
「ふむ。静電気で人の感覚に錯覚を起こさせて、辛みと誤解させる可能性を追求するのだな。」
「同じ擬態語であれば、少なくとも日本人には錯覚を起こさせうる可能性を否定できまい。」
そこまで一気に論じて。
二人のインテリは、同時におのれの眼鏡をずり上げた。
部室を舞う埃さえも、静まりかえっている。
誰も、二人の世界を邪魔しようとはしなかった。
そんな中。
河村が、小さい声で大石に呟いた。
「本当にそうだとしてもさ。」
「ん?」
「絶対、英二がいうような省エネにはならないよね。乾と手塚の作ったきんぴら。」
「あぁ……そうだね。」
大石秀一郎は思った。
タカさんは本当にいい人である。
今度、ギネスブックに申請してみようか。
大石秀一郎は、そのとき、心の底からそう思った。
窓の外では、木枯らしが吹き抜けてゆく。
東京の乾燥した冬は、どこまでも世界を枯らし尽くしてゆくが。
生き物たちはいつも、潤いの春がかならず訪れることを予感しているるから。
だから、この乾ききった冬の中を、生きてゆけるのだ。
「料理はさ、手間を惜しんじゃ、ダメなんだよね。」
大石秀一郎、弱冠十五歳。
友人の笑顔がこれほど眩しく見えた日はなかったという。
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