春の野原へ〜聖ルドルフ篇。

 風呂あがり。
 他愛のないことで笑い合いながら、ロビーを通りかかると、テニス部の三年生たちがテレビの前のソファーを占領していた。春のぬるい空気が急に冷まされてゆく夕方の寮は、気怠い心地よさを感じさせる。
 手招きされて、金田と裕太は、洗い髪もそのままに、先輩たちの輪に加わった。

「何のテレビっすか?」
「よく分からん。」

 金田の問いに、赤沢は興味なさそうに答えた。頬杖をついて木更津が付け加える。
「観月が見ているだけ。」
 ドキュメンタリーらしい深刻なナレーションの声を片耳で聞きながら、どうやら観月以外の三年生は、なんとなく黄昏ていたらしかった。退屈を弄んでいたところへいい玩具が通りがかった、とばかりの先輩たちに、気付いたときには裕太と金田は完全包囲を受けていて。

「なんか面白い話、ない?」
「はぁ。」

 穏やかな眼差しで問いかける木更津が、実は観月の次に怖いらしい、ということぐらい、二年生にもなれば分かっている。裕太と金田は顔を見合わせた。
「面白い話っすか?え〜っと。」
 とっさには何も思いつくはずもなく、言葉を探す二人に、木更津は助け船に似た何かを示した。

「じゃあ、今、君たち、何を話していたの?」

 まるきり尋問である。
 もし、その話がつまらなかったら、ちょっと祟るよ、と言わんばかりの温かい眼差しに、金田は音を立てて唾を飲んだ。しかし、裕太は偉大な兄や敬愛する観月に鍛え上げられている。木更津の微笑みにそれほどは臆することなく、タオルで頭をがしがしと拭きながら、口を開いた。

「将来、何になりたいかって話をしていたんですよ。」

 祟りたきゃ祟れ、俺はもう、兄貴に呪われ、観月さんに憑かれている。その上、木更津さんの一人くらい増えたところで、何にも怖くはない。
 裕太の力強い開き直りに、金田はそのとき、熱い尊敬を覚えた。
 部長の赤沢は、背筋も凍る心理戦の最前線に後輩たちを残して逃げ出すほどの卑怯者ではない。

「将来の夢か。」

 とりあえず、話題を拾ってやった。
「赤沢さんは何になりたいんですか?」
 安堵の色もあらわに、金田が取りすがってくる。話題は拾ってみたものの、将来の夢、と急に聞かれても、簡単に思いつくものではない。赤沢が逡巡するのを見かねて、今度は柳沢が助け船を出す。

「俺は総理大臣になるだーね。」

 間髪を入れず、遠慮の欠片すら見せずに木更津が吹き出した。
「敦、何を笑うだーねっ!!」
「ごめん、ごめん。だってイメージがさぁ。」
 木更津はまだ笑っている。
 どうやら、この話題は面白かったらしい。
 裕太と金田は胸をなで下ろした。

「そういえば、赤沢さん、前、学校の先生になりたいって言ってませんでしたっけ?」
「ああ?そんなこと、言ったか?」
 金田の言葉に、赤沢は首をひねる。
「言ったかも知れないなぁ。体育の先生とか、楽しそうだと思わないか?」
「赤沢らしいよね。」
 ようやく笑いの発作が治まったらしい木更津が相づちを打つ。

「そういう敦は、何になりたいんだーね?」
「……くすっ。知りたい?」
 木更津の背後には、明らかに、どす暗いマーブル模様の背景トーンが貼られている。
 どどめ色の背景を背負った愛らしい微笑に、裕太も金田も赤沢でさえも、聞かせてくれなくて良い!と心の中で叫んだ。しかし、柳沢はさすがに木更津のダブルスパートナーである。平然と、
「そういう言い方をされちゃ、気になるだーね。」
 と、返す。もちろん、木更津の答えが
「ひ・み・つ!」
 であることは、分かり切ってはいたのだが。
 とりあえずそこで、話題が途切れた。

 気が付くと、テレビ画面は、ドキュメンタリー番組のエンディングテロップを流していた。
 木更津さんに祟られる前に、話を進めよう。
 そのとき、裕太は苦渋の決断を下した。

「観月さん、観月さんの夢は何ですか?」

 食い入るようにテレビを見ていた観月が、裕太の声にふと振り返る。
「ああ、裕太。いつからそこにいたんです?」
 テレビに熱中していたのか、彼は二年生が来たことに気付いていなかったらしい。もちろん、話題などまるきり聞いていなかった。

「今、将来何になりたいか、って話をしていたんですよ。」
「ふぅん。」
「観月さんは何になりたいんですか?」

 観月は前髪をいじりながら、しばらく小首を傾げて、考える仕草をした。
 そして。
 にっこりと微笑む。

「そうですね。将来の夢。そう。どこかの学校で、テニス部のコーチになるのはどうでしょう。」

 観月の口から流れ出たのは、意外にもまともな答えだった。一同は少し拍子抜け。
 しかし話はそこで終わらなかった。
「そう、そして、こんな気持ちの良い春の日には、私の言うことを何でも聞くような少年たちを、六、七人連れて、新品のユニフォームを着せて、野原でテニスの特訓をするっていうのも楽しそうですね。朝から晩まで。最低十時間ぐらい、でしょうね。ユニフォームが真っ黒になるまで、特訓しますよ。そう。倒れるまで、ね。」

 もちろん。
 裕太は心から先ほどの決断を悔いていた。
 観月さんにこんな話題、ふるんじゃなかった。

 ソファーに深くもたれかかって、半ば滑り落ちかけている柳沢が、赤沢に小さくつぶやく。
「その野原はきっと、三途の川沿いにあるだーね。」
 声もなく頷く赤沢。彼らの陰口に気付いているのかいないのか、自分の立てたシナリオに心底満足したらしい観月は、
「んふ。」
 と、優しい笑みをこぼした。




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