大仏騒動〜不動峰篇。
朝練がない日の朝には、本当に性格が出る。
練習があればちゃんと来るのに、ない日には遅刻するやつ。
朝練と同じ時間に登校してしまい、暇を持て余して、教室で寝潰れているやつ。
普通に朝礼前に教室に現れるやつ。
さて、本編の主人公石田はといえば。
思わずいつも通りの時間に学校に着いてしまい、手持ちぶさたな風情丸出しで机に座っているような男である。椅子に座るならお行儀も良いが、机に座って、頬杖付いて捨てられた子犬のような目で、誰も姿を見せない教室のドアを見つめているような男なのである。
まぁ、それでも小一時間待たずに、教室には続々とクラスメートが登校してくるし、石田は誰とでも話せるようなタイプであったので。
不憫な石田、を目撃した生徒は、実際にはそう多くはない。
本編のもう一人の主人公、橘杏は、その貴重な目撃者の一人であった。
開けっ放しの教室のドアの向こう。
ぱたぱたと軽やかな足音がして。
うっす!と手を額に敬礼のように掲げて、橘杏が元気良く駆け込んでくる。
「おはよ!石田さん!」
「おはよう、杏ちゃん。早いな。」
「早いな、って、石田さん、もっとずっと早かったんでしょ?もう、十年前から登校してるみたいな顔だよ?」
そう言って気さくに笑う橘杏は、転校生だという事実をみなが忘れてしまうほどに、不動峰になじんでいる。むしろ、彼女は二年生の中心的人物であると言ってもいい。男女問わず人気があったし、いつだって彼女の周りには笑い声が絶えなかった。
「ねぇ、石田さん、昨日変な夢、見なかった?」
「夢?う〜ん、俺、昨日は夢見た記憶、ねぇな。」
真顔で小首を傾げて考え込む杏に、石田も少し困惑して鼻をかく。
「夢がどうしたんだよ?」
「うん、昨日、ちょっとすごい夢を見ちゃったの。石田さんが出てくる夢、ね。だからちょっと気になってさ。」
学年のアイドルにそう言われて、嬉しくない男がいるだろうか?
石田は別に、杏に恋をしている、などとは思っていない。それが自覚がないだけなのか、本当にただの友情なのか、については、ここで論じるのはよそう。確かなことは、石田にとって杏が親しい友人であり、大事な「チームメイト」である、ということである。
はっとしたように杏は、石田のズボンを指さして。
「ね、ポケットの中に、変なモノ、入ってないよね?」
「へ?ポケットの中?」
慌てて制服のポケットに手を突っ込んでみる。
中にはしわくちゃのハンカチが一枚。
あとは、コンビニのレシート、とおぼしき小さな紙がくしゃくしゃになって、押し込んである。
まぁ、変なモノ、は入っていない。レシートとかしわくちゃハンカチとか、少し恥ずかしいモノは入っているけど。
「ああ、特別なモノは何もねぇけど。」
「そっか。なら良いんだけど。」
相変わらず煮え切らない杏の口調に、今度は石田が首を傾げる。
「今日はどうしたんだよ?」
「うん。だから、変な夢、見てね。」
そして、にわかに、杏はその夏服でむき出しの腕を伸ばし、石田の額に手のひらを押しあてた。
「って、杏ちゃん!俺、熱はねぇって!」
思わず声がうわずる。しかし杏があまりにも真剣な表情をしているので。
ふと。
石田も黙り込む。
「ごめんね、石田さん。ちょっと気になったから。おでこ。」
頭に巻くタオルを直すふりをして、石田は自分の額に、さりげなく触れてみた。
意味もなく、ちょっと「特別」な感触がした、気がした。
「どんな夢、見たんだよ?」
「うん。」
杏は、一瞬、石田の顔をのぞきこみ、躊躇して。
小さく頷くと、口を開いた。
「あのね、石田さんがテニスの試合に出ている夢なの。いつも通りダブルスで。相手は、よく分からない。もしかしたら青学との試合だった、かもしれない。」
「ああ。」
「私、なんだか遠くから見ているのね。で、石田さんと桜井くんが負けそうで。あ、ごめんね、傷つかないでね。」
「あ、そんなんは全然、気にならねぇ。だいじょぶだよ。」
「そっか。ありがと。」
杏はにっこり微笑んで。
窓の外はどんどん夏の日差しに満ちて。
教室には、生徒の数が増えてくる。
「でね、石田さんが、お兄ちゃんを見て、言うの。『すみません、橘さん、アレ使います。』って。で、お兄ちゃんが、『仕方ねぇな、一度だけだぞ。』って返事して。」
「うん。」
それは間違いなく、対青学のD2。
河村さんに怪我をさせてしまった、あの試合の記憶。
「そしたらね、石田さん、ポケットからお兄ちゃんとお揃いのほくろを取り出して、自分のおでこにぺたって貼ったの!」
「……へ?」
「それで!石田さんの背後にぴか〜〜って後光が差してね!桜井くんが『大仏発動っ!』って叫ぶと、ベンチのみんなが立ち上がって、石田さんを指さして、『大仏確認っ!』って言うの。」
「……。」
「それを見たお兄ちゃんが、少し笑って『見せてみろ!お前達の新フォーメーション、欣求浄土厭離穢土☆ラブ&ピース☆大仏アタックを!』って。んで、石田さんと桜井くんがにっこり頷いて。」
「…………。」
周囲の生徒達は、杏の熱弁と、石田の硬直の理由が分からず、触らぬ神に祟りなし、といった様子で、遠巻きにちらちらと視線を投げかけるのみである。
夏服の襟を軽く引っ張って息を付くと、石田はどうしたものか、考えた。
考えたところでどうなるモノでもないことくらい、初めから分かってはいるのだが。
ばたばたと廊下を内村と森がはしゃぎながら走っていくのが見えた。あいつらは平和で良いなぁ、と、脈絡なく彼らを羨んでみたりもする。
窓の向こうには初夏の木々。
「で、続きがあるのっ!石田さんね、後光を背負ったまま、『欣求浄土厭離穢土☆ラブ&ピース☆大仏アタ〜ックっ!!』て叫んで、桜井くんと一緒になんだかすごい技を出しそうになるとね。すごいの!お兄ちゃんのおでこも光るの!」
「…………うん。」
「そのときね!そのときね!」
「…………うん。」
「石田さんね、お兄ちゃんと同じ、九州男児のしゃべり方になってるの〜〜!!『行くでごわすっ!』とか言うの〜〜!かっこよくって〜〜!!でも、そこで目が覚めちゃって……!正夢じゃないかなって期待していたんだけど……違ったんだね。石田さん、大仏になれないんだね。」
「………………ごめん。正夢じゃなくて。」
杏は、石田の席の前の机に、足を投げ出すように座って、首を横に振った。
「ううん、仕方ないよ。石田さん、東京の人だもん。お兄ちゃんみたいにかっこいいわけ、ないよね。」
その瞬間。
石田は、なんかすっごいことを言われた、と、思ったのだが。
どこがどう、何なのかは、いまいち自分の中で整理がつかないまま。
呆然と杏の無邪気な笑顔を見つめるしか、なかった。
とりあえず。
橘杏、お兄ちゃんラブ、である。
石田は単に、杏のお兄ちゃん自慢を聞かされただけだった、のかもしれない。
教室の隅で誰かがかけたラジオから、今日は一日、快晴だと、無機質な声が告げていた。
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