大仏騒動〜氷帝篇。
電子音が耳をかすめる。
手を伸ばし、目覚ましのスイッチを切り。
まだ全く覚醒しようとしない意識に違和感を覚える。
薄く目を開ければ部屋は真っ暗で。
止めたはずの電子音は鳴りやまない。
あれ?
ああ。
あれは携帯の着メロ。
しかも。跡部さん専用の。
そこまで気付いて、がばっと跳ね起きる。こんな時間に電話がかかってくるなんて、きっとろくなことじゃない。不安が胸をよぎって。
真っ暗な部屋の中、机の上に置きっぱなしの携帯の待ち受け画面だけが無機的な冷たい光を発している。
柄にもなく迷いながら、通話ボタンに触れると。
もしもし、と言う前に向こうから不機嫌な声が飛び込んできた。
「おい?樺地か?」
「うす。」
「ホントに普通に樺地か?」
「……うす。」
よく分からないけど、跡部さん、何かあったわけじゃないんだ、と。
樺地は胸をなで下ろす。
「今、何時だよ?」
「……一時半、じゃない二時半っす。」
「そんな時間に起こすなよっ!」
「……うす。」
さっぱり事情が飲み込めないが。
こんな深夜に電話があるなんて初めてのことだし、そういうときってこんな風に言うモノなのかなぁ、と樺地は彼一流の適応能力を発揮し、納得した。
「じゃ、俺、もう寝るからな。」
「うす。おやすみなさい!」
「おぅ。お前も早く寝ろよ。」
「うす。」
一瞬、声が途切れて。
夜の闇に目が慣れてきた。シーツの白がぼうっと淡く浮かび上がって見える。
「……あのな、不動峰の橘、あいつには気を付けろよ?」
「……うす。」
「……それだけだ。じゃあな。」
「うす。」
宍戸さんが橘さんに負けたこと、そんなにショックだったのかなぁ。
そんなに気になっているのかなぁ。
でも、夜中にわざわざ、電話してくるくらいだし。何だったんだろう。
通話はすでに切れて、無機的な「ツーツー」という音だけが耳に障る。
しばらく首を傾げて樺地は眠い頭で思案していたが、諦めて布団の中にもぐりこんだ。跡部さんの思考に付いて行くなんて、所詮、無理なことだと分かっている。
翌朝。
樺地はものの見事に寝坊した。
夜中に間違えて目覚ましを止めたまま、すっかり忘れて寝てしまったのである。
もちろん、起きてこないことを心配した母親が起こしに来てくれたので、朝練が始まる直前には学校に駆け込むことができたのだが。慌てて着替えて、ダッシュでテニスコートに滑り込む。
すでに準備運動を各自始めていた部員達は、振り向いて。
「お、樺地、来たか〜。」
「おはよ、樺地!ぎりぎりなんて、珍しいな。」
「おはようっす。樺地さん!」
いつもなら真っ先に登校する跡部の横に立って、皆を出迎えてる自分が、今日に限って全員から一斉に挨拶を受けるのはなんだか面はゆいような気がした。
頭を掻きながら、うつむきがちに小さい声で挨拶を返す。
と、唐突に。
コートの向こうに立っていたはずの跡部が、潜り込んで下から顔を覗き込んできて。
思わず、のけぞってしまう。
気分は「ばぁう」である。
「逃げるな!樺地!お前、ちょっとおでこ見せろ!」
「……うす。」
しげしげと顔を覗き込む跡部。
昨夜から跡部さんはいつも以上によく分からない。
首を傾げつつ、しばらく樺地の額を観察し、あまつさえ指先でぴとぴとと触って何かを確認している。
学校まで道を全力疾走してきたため、息が上がっているのだが、緊張のあまりなぜだか息を詰めてしまう。頭がくらくらしてきた。
「異常ないな。」
「……うす。」
ようやく、跡部さんが一歩離れてくれた。
樺地は思わず大きく息を付く。
その弾みに見上げた五月の空は高く澄み切っていた。
跡部は跡部で、樺地の額をつついていた指先をじっと見ていたが、にわかに顔を上げ、びしっと榊監督さながらに指を突きつけて言い放つ。
「だいたい、樺地がぼーっとしていたのが悪いんだぞ。」
「……うす。すみません。」
遅刻したことを怒られているのだろうか?
「俺が逃げろって言ってるのに、あっさり取り囲まれやがって。」
「…………うす。」
へ?取り囲まれ……?
「しかし許せねぇな。不動峰のやつら。」
「…………。」
昨夜から不動峰がなんとか言ってるけど、何の話なんだろう。
さすがにここまで話が読めないと、相槌も打てない。樺地は跡部に親しい三年生達に助け船を求めて視線を彷徨わせる。だが、居合わせた全員の背景に「何だ何だ??」という書き文字がある。どうも役に立たなそうだ。
と思ったら。
「何があったん?跡部。」
優しい先輩が一人、はんなりと小さな助け船を送ってくれた。
五月の風が頬に柔らかい。
忍足の前髪を微かに揺らして、木々の若葉の匂いを乗せて、風はどこかへ消えていった。
「夢を見た。」
あからさまに憮然とした表情で跡部が言う。
お前ら、どうしてそんな簡単なことも分からねぇんだ、とでも言いそうな表情である。
「夢ぇ?って、どんな夢だよ。訳分からねぇよ。」
跡部が更に憮然とするであろうことを承知で、今度は宍戸が泥をかぶってくれる。氷帝の先輩達は皆とても優しい。樺地は心の中で三年生達に手を合わせた。
「樺地がテニスコートに居るんだ。ほら、あっちのコートの手前側な。俺は遠くから見ていて。で、なぜか不動峰の橘が樺地の前に立ってるんだよ。」
「……それで?」
「したらな、橘が『作戦開始!』とか叫んでな、不動峰の連中がコートに駆け込んでくるんだ。で、樺地はぼーっとしてやがるから、すっかり囲まれて。」
「……それから?」
「包囲されて身動きとれねぇ樺地に、橘がすっと近寄ってだな。」
ぐっと、跡部は樺地の方へ身を寄せて。
再び額に指を突きつける。
「こうやって、樺地のおでこに自分とお揃いのほくろを貼り付けやがったんだ。」
忍足の背中にしがみついて、声もなく向日が笑い崩れる。
鳳は笑って良いのか泣いて良いのか分からずに、その場でくるくると回転した。
無遠慮に吹きだしたのはジローと滝であった。
忍足はにっこりと微笑んで、宍戸は苦笑を浮かべつつ、跡部に話の続きを促す。
当然、樺地は息を詰めたまま、フリーズしている。
「連中が一斉に、樺地のおでこ指さして、『大仏確認!』って叫んでだな。不動峰の、誰だ?名前知らねぇけど、滝みてぇな髪のやつが時計見て『何時何分!作戦終了!』と小さく言って。橘の野郎に全員揃って敬礼すんだ。で、またどこへともなく走って行きやがった!全く!」
……全く!
は、こっちの台詞だろうがよっ。
と。
思ったのは宍戸で。
こんな妙な夢を跡部さんに見せてしまったのは、自分が不甲斐ないからだろうかと、樺地は酸欠気味の頭で考えていた。
跡部の指先がようやく樺地の額から離れる。
樺地はまた、大きく息を付いた。が、跡部はキッと目を上げて。
「そこからが問題だろうが!」
「……うす。」
すみません、そこからと言われても、俺はその夢、見てないっす。
「お前、あの後、俺に言ったこと、覚えてるか?」
「……覚えてないっす。」
あ、ついに鳳が宍戸さんの影に隠れて泣きだした……。
「お前、いきなり橘と握手して、『世界に愛を!』とか言い出したんだぞ!」
「…………。」
「しかも背中に仏像みたいな輪っか背負ってるし!それ、光るし!」
「…………。」
「テニス部を『仏部』にしようって言い出すし!」
「…………。」
「俺、本っっ気で困ったんだからな!」
「…………うす。すみませんでした。」
言いたいことを言いきって、満足したのか。
跡部はくるりと樺地に背を向けて。
「おらっ!練習始めるぞっ!」
五月の静かな日差しの下を。
いつものように歩き出す。
いつものように樺地が付いてくることを疑いもしない様子で。
「もう、二度とあんなこと、言うんじゃねぇぞ。樺地。」
「うす。」
宍戸は髪を掻き上げて。
忍足は眼鏡をずり上げて。
小さく溜息をつきながら、自分の背中に張り付いている鳳と向日を回収しつつ、コートに向かう。
すでに咲き始めた露草の向こう。
今日もまた、いつもと同じように、氷帝テニス部の一日が始まる。
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