朝練があるともなれば、通学路で部活の友人に出会うのも当然だが。
やっぱりなんとなくラッキーだなぁ、と思ってしまうのが千石という男。
遅刻せずに来てくれて良かった、と安堵してしまうのが南という男。
強い風が絶え間なく吹いていた。春の終わりはもう、間近である。
そこを曲がれば校門が見える、という角まで来たとき、二人は聞き覚えのある怒鳴り声に出くわす。
「うるせぇっ!もう、付いてくんなっ!!」
「あぁん、仁っ!ダメだったらっ!!」
角を曲がれば、案の定。
優紀ちゃんを置いて、学校に駆け込んでゆく亜久津の背中。
「おはよ。優紀ちゃん。どしたの?」
優紀ちゃんはその華奢な体に似合わない巨大なバイクに寄りかかるようにして、泣きそうな目で俯いていたが。千石の声にはっと顔を上げる。
「清純くんっ!それに健太郎くんっ!!良かった〜〜。良いところに来てくれたわ〜。」
たぶん、ノーヘルで、バイク飛ばして亜久津を追いかけてきたんだろうなぁ、と、優紀ちゃんの底知れぬ過去に怯えながら、南は部長としての責任感に駆られて口を開く。
「亜久津がどうかしたんすか?」
「そうなの〜〜。仁がね〜〜。」
目からこぼれ落ちそうに大きな瞳をうるませて。
優紀ちゃんは言葉を探し、しばらく押し黙った。
晩春の日差しはまだ、早朝の凛と張りつめた気配を残している。
そして。
「あのね。カルチャーセンターのお友達の手塚さんから聞いたんだけど。風が強い日はトビウオのうろこが風に乗って飛んできて、目に入っちゃうから危ないんですって。だから仁にサングラスをかけさせようとしたんだけど。逃げられちゃって。」
と、また涙目になる。
ああ、亜久津も大変だなぁ、と千石は思い。
そいつは大変だぁ、と南は思った。
「ま、俺はラッキーだし、大丈夫だけど。」
「俺は日頃の行いが良いっすから、平気でしょうけど。」
二人の言葉に、優紀ちゃんは一瞬、目を暗く光らせてその細腕をぐいっと伸ばし。
白ランの襟首を二人同時に鷲掴みにして、低い声ですごんだ。
「あたしの息子はアンラッキーで日頃の行いが悪いってのっ?」
速攻で、ふるふると首を横に振る二人。
やっぱり、優紀ちゃんは敵に回しちゃいかん。
心の中でそう再確認するのであった。
「じゃ、亜久津にそれ、渡しておくよ。」
「ん〜〜、清純くん、お願いね!」
なんとかフォローをして、優紀ちゃんの魔の手から逃れた千石と南。
にっこり笑って手を振る彼女の姿に、鬼の面影を見たのは幻覚ではあるまい。
晩春の風は、まだ吹き続けていた。
部室で着替えて、グラウンドへ向かう道すがら。
南が小さな声で、千石に尋ねる。
「これだけ風が強いと、危ないかな。」
「……ん?あ。うろこ?」
「ああ。亜久津も目が大きいが、太一とかが特に心配だ。」
「……そだね。」
南はいつも通り、真剣な眼差しで、空を見上げている。
晩春特有のぬるい突風が絶え間なく、吹き抜けてゆき、空はどこまでも高く突き抜けるように晴れ渡っていた。
さて、一体、どうすればいいかな。
千石は小首を傾げて南の横顔を眺めた。
もうしばらく騙しておくか、それともさっさと嘘だと教えてやるか。
優紀ちゃんは騙されていたけど、別に南がそれに付き合わされる所以はないし、だいたい、よく考えたら亜久津は退部しちゃってるじゃないか。
う〜ん。
そのとき。後ろから声がかかる。
「大丈夫っすよ。南部長。」
びっくりして振り返れば。
室町が相変わらず表情を読ませない雰囲気で立っていた。
「大丈夫って、何が?」
「うろこっす。目にうろこが入っても、大丈夫って話っすよ。」
やっぱり室町くんって、よく分からないけどタダモノじゃないや。
千石は嬉しくなった。
風はグラウンドの土を巻き上げながら吹き続けている。
「目からうろこが落ちるって言うでしょ?目にうろこが入っても、ちゃんと落ちるんですよ。だから心配はいらないっす。」
「そ、そうか。」
南の目が少し落ち着きを取り戻した。
日差しがだんだん強くなってくる。もうすぐ時計は七時十五分を回る。部活開始まで時間がない。
「でも、問題は、目からうろこが落ちなかった場合っすね。」
「落ちないこともあるのか?」
室町は口元だけで笑う。
「目にまつげが入っちゃって、痛いときってあるっすよね?」
「ああ。」
「でも、気付かないうちに痛くなくなってることってあるでしょ?」
「あ、ああ。あるな。」
「あれ、まつげが眼球の裏に溜まってるって話、知ってました?」
「……。」
「あれと同じっすよ。うろこもね。気が付くと、眼球の裏に溜まるんす。」
「……。」
南は無垢なまでに人を信じる。
それは美徳だと思う。
だけど、いくらなんでも、こんな話で騙されないで欲しい。
千石は室町の無表情な笑顔にうきうきしながらも、少し心配になった。
頼むから。
そんなあからさまに怯えないでくれってば。
「は〜い。室町くん、そこでストップ。もう、部活始まるからね〜〜。」
にっこりと冗談めかして口を挟むと、室町も心得たモノで、小さく頷いて黙った。
そして、千石は意を決し。
「南〜、今の話、全部嘘なんだからね!室町くんのも優紀ちゃんのも。」
と、身も蓋もなく、フォローをしてみる。柄にもないっ、とは思うのだが、なんだか今日は、しゃれにならない騙されっぷりなので。
少しだけオトナのふりをしてみる千石。
いつも南に支えられている恩返し、とか殊勝なことを思ってみたのだが。
「じゃあ、目から落ちなかったうろこは、どうなるんだ?それに、どうして目の中にうろこが入っていたんだよ。」
と。
南は真剣に切り返してきた。
さて、どうしたものか、と目を泳がせていると、責任を感じてか、無表情に困っているらしかった室町がふと、びっくりしたように目を上げる。
「おはよう。」
振り返れば、そこには、東方が気配もなく、立っていた。
あまりに地味で、比喩ではなく、文字通り地に落ちる影さえも薄い。って、そんな非科学的な存在ではないにしろ。なんだか茫洋と立っているのである。
「おはようっす。」
「おっはよ。」
「やぁ。」
思い思いに挨拶を交わすと、また強い風が彼らの間を駆け抜けてゆく。
三人の顔をのんびりと見回して、東方はいつもの柔らかい笑顔を南に向ける。
「目に残ったうろこが気になる?」
「あ、ああ。」
ごく普通の対話のように、切り出す東方。
さっきの南のリアクションで、一体、どうすれば良いのか途方に暮れていた千石と室町には渡りに舟である。
「目くじら、って知ってるか?」
「目くじらを立てる、の目くじらか?」
「そう。それ。」
コートの向こうで、中一がボールを運んでいる。
ときおり、巻き起こる砂煙に、少年達は小さく悲鳴を上げながら、目をつむって立ち往生し、風が止むと走り回り。
だんだん、準備体操を始める部員達も増えてきた。
「目から落ちるうろこは、実は目くじらのうろこなんだ。」
「へ?」
「目くじらってのは、目の中に住んでいる小さなくじらさんなんだよ。」
「小さなくじらさんが住んでいるのか?!」
「そうだ。人間の体には、いろいろな微生物が同居している。くじらさんもな。」
南の目が、きらきらと輝いている。
室町は小さく唸り、千石はくるくる回りながら音を立てずに拍手喝采をした。
「ちなみに。目から落ちたうろこから、目くじらさんが生えてくるのだ。」
「そう。そして何を隠そう、新渡米の芽が、目くじらさんの芽だ。」
気が付くと、東方の背後には喜多と新渡米が真剣な顔で立っていた。
風に乗って、太一たちのじゃれ合う声が聞こえる。
「新渡米の目くじらさんが大きく育ったら、一緒にホェールウォッチングに行こうな。」
爽やかな笑顔で手をさしのべる東方に、穏やかに肯き返し、南はがっちりと手を握る。
「ああ。行こうな。」
恐るべし。
山吹の無敵ダブルス軍団。
千石は、うちのダブルスの団結力は無敵かも知れない、とちょっとどきどきしてみた。
そして、もしかしたら東方は、今の話、本当のことだと思っていたんじゃなかろうか、とか考えて、ときめいてみたりもした。
ちなみに。
優紀ちゃんから預かったサングラスは、室町のサングラス・コレクションに加えられたそうである。
また、くじらはほ乳類である。
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