うろこ物語〜氷帝篇。
初夏の日差しはまだ傾くこともなく、無邪気なまでの明るさで世界を照らしていた。
その日は関東大会の対戦カードを決める日で。
運命の女神は、緒戦から青学に試練を与える。そう、青学との対戦を引き当てたのはかの強豪、氷帝だったのである。
その結果を部員達にどう伝えようかと、いくらか重い心を抱えて立海大附属から駅に向かう道。手塚と大石は、偶然にも跡部と宍戸に行き会った。
濃い影が並木の添って静かに闇を落とす。
「よぉ。」
静寂に耐えかねた宍戸が、いつもより幾分低い声をかける。
やはり沈黙の重みに苛立った大石が、軽く手を挙げて応じた。
しかし部長二人は動じる様子もなく睨み合って。
静かな風が、木陰を揺らす。
「跡部、一つ、折り入って話がある。」
「話だと?」
手塚が口を開きかけたとき、弾かれたように伸びた大石の手が手塚の右肩をつかんで引き戻す。
「おい、待てよ。手塚!お前まさか!?」
「この際、はっきりさせておいた方が良い。」
「だからって跡部にこんな場所でっ!考え直せよ!」
「今でなければ、いつ話すんだ!」
普段の温厚な大石や冷静な手塚からは考えられないような、激しい応酬に、宍戸のみならず跡部も驚きを隠せない様子で、唖然とする。しかしはっと何ごとかに気付いて、跡部は眉を寄せて言った。
「おい。手塚っ!樺地ならやらんぞ。」(←大まじめ。)
「……それは。……残念だな。」(←社交辞令のつもり。)
「当たり前だ。」(←少し安心。)
樺地を従えている手塚を想像した大石と、手塚に付き従う樺地を想像した宍戸は、少しだけ愉快な気分で口元をほころばせる。が、部長対決は続いていた。大石がちょっと気を散らしている間に、手塚は大石の腕を振りきって、跡部に向き直る。
「目からうろこ、という言葉を知っているか?跡部。」
「あ〜ん?」
西日が電車の窓を焦がすように照りつける。
手塚との直接対決の後、跡部はほとんど口を開かなかった。線路を揺する車輪の音ばかりが耳に響いている。
「あんな話、嘘に決まってるだろ。」
網棚の上に目をやりながら、独り言のように言い切って、宍戸は跡部の反応をうかがう。
どう考えても跡部は手塚の作り話に踊らされている。あの跡部が。
馬鹿馬鹿しい。
短くなった前髪を、以前の癖で軽く掻き上げながら、宍戸は手塚のあの瞳を思い出す。
手塚はあの真面目な眼差しで言うのだ。
目からうろこが落ちる、というが、そのうろこはどうして目の中に入っていたか知っているか?と。
そして、挑むようにこう告げた。
「あれはな、トビウオのうろこが目に入っていたのだ。突風に煽られて剥がれたうろこが、風に乗って人間の目に入ることがある。俺が言いたいのは。」
厚い雲が一瞬、日差しを遮って、世界を影の中に突き落とす。
最寄り駅が陽炎のように薄い影の闇に浮かんでいた。
「俺が言いたいのは、……それだけだ。」
そうして、手塚は一瞬、不敵な瞳を見せ、困惑した大石を連れて改札を抜けてゆく。
取り残されたかのように、跡部は呆然と立ちつくし。
宍戸に促されて電車に乗っても、口を開こうとしないのである。
一駅、二駅とほとんど人の乗降のないまま、惰性のように電車は走り、止まり、を繰り返す。
五つ目の駅を過ぎた辺りであろうか。
腕を組んだまま、窓から流れ行くビル群を見ていた宍戸に、俯いた跡部の声が届く。
「当たり前だろう。トビウオのうろこが目に入るなど、あり得ない。」
「ん?」
「問題は、なぜ手塚がいきなりあのような話をしてきたのか、ということだ。」
それだけ言うと、跡部はまた黙り込んでしまう。
まぁ、それは確かに不可解だなぁ、とは思いつつ、宍戸は手塚の思考回路に挑む気もせず、そのまま話を受け流して、視線を窓の外に戻した。
ついでに言うと宍戸は、跡部の思考回路にもあまり深入りしたくはなかった。
氷帝に戻ると、案の定、レギュラー陣は部室で待機していた。特に約束をしていたわけではないが、跡部と宍戸ならば、関東大会の対戦カードを報告しに学校に寄るついでに部室にも顔を出す。そう考えていたのであろう、みな、当たり前のように二人を出迎えた。
そして。
跡部の苦虫を六十匹ぐらいかみつぶしたような顔に、ふと軽い不安を覚える。
「緒戦の相手は、青学だ。」
相変わらず黙り込んでいる跡部の横で、諦めきった目の宍戸が抽選結果を話し始める。
緒戦が青学だという言葉は、それなりに強い衝撃をもって部室を震わせたが。
跡部の様子がおかしいのは、どう考えても、青学との対戦が決定したからなではあるまい。あの不敵な部長が青学などを恐れるとは思えない。少なくともそれを表情に出すような人ではない。
では、一体、何が跡部を苛立たせているのか。
その事情説明を求めて、一同は宍戸の口元を見つめる。
しかし宍戸はしばらく視線を泳がせた後。
「えっと、俺からは以上っ!!後、何かあったか?跡部??」
精一杯、普通の調子で、微妙な逃げを打った。
すると、跡部が六十一匹目の苦虫をかみつぶしたように、眼光鋭く目を上げて、全員をにらみ回し、低い声で。
「目からうろこが落ちた経験があるやつ、いるか?」
部室内の空気はすっきりと爽快に氷点下を下回った。
鳳が何か反応しようと口を開きかけ、慌てた宍戸に止められる。むしろここではリアクションがない方が跡部の機嫌を損ねるように鳳には思われたのだが、どうやら鳳や宍戸の手に負える話題ではないらしい。そう了解し、鳳はすごすごと物陰に隠れた。
「目からうろこ?コンタクトじゃなくて?」
「あほか。岳人。目からうろこってのはな、分からなかったことが急にはっきり分かるようになるっちゅう意味や。」
「あ〜、その言葉なら知ってる〜〜。」
そう。
ここは彼らの出番なのである。
机の下で、鳳と宍戸ははらはらしながらことの成り行きを見守った。
「う〜ん、急になにか分かった〜〜ってこと、あった気もするけど、よく覚えてないや〜。」
と、ジローの言葉に。
跡部はキッと鋭い視線を投げかけて。
「内容はどうでもいい。そのときのことを思い出せ!ジロー!落ちたうろこは、どこにやった?」
鳳はついうっかり、机に頭を打ち付けて、涙目になる。
「え〜?うろこ〜〜?どこやったっけ〜〜?」
「ジローのことだから、すぐなくしちゃったんじゃん?」
「そうかも〜〜。ごめんね。跡部。俺、そのうろこ、もう、持ってないや〜。」
六十二匹目の苦虫をかみつぶしながら、跡部は舌打ちをした。
にこにこしながら、向日とジローの会話を見守っていた忍足が、小首を傾げつつ口を開く。
「そのうろこが必要なん?」
「ああ。手塚を、いや、青学を破滅させてやるためにな。」
「事情を説明してくれへん?」
柔らかな忍足の言葉に跡部は、もう一匹、苦虫を追加したように眉を寄せたが、意を決して口を開く。
「……かくかくしかじかでな、うんぬんかんぬんで……」
頷きながら聞いていた忍足は、時折、机の下で小さくなっている宍戸にちらりと視線を投げかける。跡部の事情説明が、宍戸の見たものと一致するのか、という確認である。宍戸はそのたびに、小さく頷いて見せた。
ちなみに。鳳はといえば、宍戸の背にしがみつくように、かたかたと震えている。
「あの手塚がなぁ。」
「テニスはメンタルに左右されるスポーツだ。手塚は氷帝を、いや、俺を混乱させて優位に立とうと小細工を弄したんだろう。」
「そんなよた、気にしなければ済む話なんやないの?」
「初めは俺もそう思った。しかしテニスで売られたけんかを買わずに流すのは、俺の美学に反するからな。」
「そーか。」
「で、試合前に、手塚に『見ろ!これが目から落ちたうろこだ!』と動揺させてやろうと思っているのだが。」
「そんなんで動揺するん?」
「あいつがこう挑発してきたのは、間違いなくやつの弱点もそこにある、ということだ。」
自信満々の跡部の言葉に、忍足は楽しげに微笑んだ。
机の下で鳳はもはや、半泣きである。
「じゃあさ、じゃあさ、どうせ心理戦に持ち込むんだったら、もっとみんなで協力しようよ!」
「いいね〜。氷帝の団結力〜〜♪」
「うん。『勝つのは氷帝、負けるの青学!』をさ、『うろこは青学!』にするっての、どう?」
「あ、みんなで言うんだ〜〜。」
「そうそう。『勝者は跡部、うろこは手塚!』とかさ。」
「サブリミナル的に刷り込むんやな。」
いや、それは意味が分からないだろう。
と。
心理戦ってか、ただの謎の嫌がらせだろう。
と。
机の下で鳳をあやしながら、宍戸は脳内会議で満場一致の決定をしたが、机の外は別の常識が作用しているらしく、誰もそうは突っ込まない。
「ふむ。良いかも知れないな。」
「そうだろ?」
窓の外は西日。
明日の応援練習が心配だ、と宍戸は小さく溜息をついた。
余談になるが。
帰り道。
東の空はすでにその色を夕方から夜の風情に塗り替えている。
まだまだ茜色を湛える西の地平に、ビルの合間から夕焼けがこぼれた。
部室で一言も口を利かなかった樺地は、跡部の後ろを歩きながら、ゆっくりとその腕で天を指し示す。
「跡部さん。うろこ雲。」
「ん?……ああ。」
振り返った跡部は、ふっと笑って。
そのまま二人は、しばらく空を見上げながら歩いた。
その後、うろこの話が、氷帝テニス部で語られることは、もうなかった。
青学テニス部が命拾いをしたのは、あの日の夕焼けのおかげ、なのである。
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