お昼休みは、特に約束がなくても一緒にお昼を食べる。
それが彼らの暗黙のルール。
手塚の教室の扉を開くと、乾と手塚がすでに弁当を食べ始めていた。それを目にし、大石はゆっくり微笑む。お互い、気兼ねをしない。待っていたり、待たせたりしない。ただ、自分のペースで、ムリせず気にせず、のんびり過ごせるから、気楽にそばにいられる。
「お待たせ。」
机に弁当箱を置くと、黙々と箸を動かしていた手塚と乾が視線を上げて、小さく頷いた。特に何か言うわけでなくとも、それが歓迎の合図で。
近くにある椅子を無断で拝借し、大石も弁当を広げる。
ときおり、話をし。
あるいは、静かに。
食事を終えて。
静かなお昼のひととき。
手塚が教室に常備している急須に、大石が持ってきた魔法瓶からお湯を注ぎ、乾がストップウォッチと温度計で完璧な緑茶を淹れる。
それをすすりながら。
三人の豊かな時間が流れてゆく。
そんな中、ちょっとした違和感に、大石はふと気になって。
「……手塚?どうかしたか?」
何が違うのか、など、言葉にできないが、大石はその瞬間、間違いなく手塚の様子がいつもと違う、と感じていた。あえていえば、何か悩んでいるような、そんな感じ。
しばらく手塚は、大石の方を見て、言葉に迷って。
口を開く。
「ここのところ、気になっていることがあるんだ。」
乾と大石は目でその先を促す。
「いや、大したことではないのだが。」
「でも気になるよ。話してくれよ。」
「……実は。」
「うん。」
「目からうろこが落ちる、という言い回しがあるだろう。」
「ああ。」
「あれ、意味は分かるんだが。」
「うん。」
「……どうして目にうろこが入っていたのか、が分からなくてな。」
乾は腕組みをして、大石は顎に手をあてて考え込んだ。
話を終えて満足したのか、手塚は三人の湯飲みに茶を注ぐ。
静かに緑茶の湯気が揺れる。
しばらくして乾が口を開いた。
「手塚。トビウオという魚がいるだろう。」
「うむ。」
「追い風の中、トビウオが飛ぶと、風にまくられてうろこが飛ぶことがあるんだ。」
「うむ。」
「あれが風に乗って、人の目に入ることがある。」
そして、ずずっと茶をすする。
「ふむ。しかしそれでは痛くて、目を開けていられないのではないのか?」
「いや、それがな、ハードコンタクトと同じ要領で、ぴたっと入るのだな。」
「なるほど。」
「俺や手塚のように眼鏡をかけていれば、まず心配ないが、菊丸のように目が大きいやつはあぶない。普通に生活していて目に入る確率は、10年間で約1%だ。」
「うむ。……面白い話だな。」
「中一くらいまでならだませると思わないか?」
「うむ。うまくやれば、菊丸あたりまでだませるかもしれないな。」
「おいおい、英二は本気でびびるんだから、やめてやってくれよ。」
「……大石、お前は菊丸に甘すぎる。」
「そうだぞ。甘やかしすぎは良くない。」
たぶん、後輩達は、乾と手塚が御機嫌でこんな悪巧みをしているとは、思わないだろう。
大石は少し目を伏せて、笑いをこらえる。二人とも老成したオトナの表情でしゃべっているが、彼らの中にはやんちゃないたずらっ子が住んでいるのだ。ただ、ちょっと頭が良すぎるのが玉に瑕なのだが。
三日後のお昼休み。
今日は乾が最後に現れた。そして、椅子を引き寄せながら、時間を惜しむように口を開いた。
「なかなか良いデータが取れた。」
「ん?」
「いや、この前の目からうろこの話だが。」
弁当の包みを開くと、器用にくるりと箸を回転させ、唇にぴたりとあてて。それからまた怒濤の勢いで、しゃべり出す。
「中一は60%の確率でだませたが、さすがに中二になると33%しかだませなかった。中三は菊丸しかムリだったな。」
「ふむ。しかし越前をだませなかったのは大石の責任だろう?」
「そうだな。あれはデータの不正操作だな。」
「あのな〜。」
昨日の部活前。
乾がレギュラー陣を相手に、大まじめに目からうろこの作り話をしていると、途中から企みに気付いた不二と桃城が悪のりをして、菊丸に集中攻撃をしかけ。
ついには菊丸を半泣き状態にまで追い込んだのだが。
乾らに事前に釘を差されていた手前、大石は菊丸に助け船を出してやることもできない。何事もないかのように平然と真顔で練習メニューを確認している手塚を、尊敬さえしながら、とにかく菊丸に目を合わせないようにうろうろしていると。
越前に袖を引っ張られて。
「……あの話、嘘っすよね……?」
小さな声で確認されてしまったのである。ここで「ホントだよ」と言えるような大石ではない。思わず頷くと、手塚がこっちをちらりと見たことに気付いた。
そう、部長は実は恐ろしく目ざとい。
その目ざとさを活用する場所が少し可笑しいだけなのである。
「英二は昨日の練習中、風が吹くたびに、目をつぶってしまって、練習にならなかったんだぞ。」
「仕方がないやつだな。今日、走らせておくか。」
「……おい。」
手塚は練習に手を抜く部員には厳しい。
そして常に自分ルールを貫くのである。部員達にはときおり、良い迷惑である。
今日も、緑茶のいい香りが辺りに漂って。
三人は優雅な昼休みを過ごしている。
「ちなみに桃の妹はだまされなかったが、弟はだませたそうだ。海堂は葉末くんから、『良くできたお話ですね。乾さんの創作ですか?』と聞かれたと言っていた。」
なぜか少し自慢げな乾の口調に。
「……海堂も優秀な弟を持ったものだね。」
大石は何と返答して良いのか困り、微妙なコメントを返すしかなかった。
「俺も家族に話してみたが。」
湯飲みから口を離し、静かに手塚が言う。
「……へ?」
少し間の抜けた相槌を打つ大石。しかし手塚はそれに動じた様子も見せず。
「うむ。母と祖父は信じなかったが、父はあっけなくだまされた。」
「ほぉ。すごいな。」
「俺が言うのだから、本当かと思ったそうだ。」
大石はなんとなく、そう思ってしまうお父さんに同情したくなった。
乾はさっそくそのデータをノートにメモしている。
「ちなみに母は、俺が冗談を言ったと言って喜んでいた。」
「……良いお母さんだな……。」
細い茶柱が、湯飲みの中でふわりと浮かび上がる。
その柔らかい動きに、目を奪われていると。
「だが、一つ、まだ気になることがあってな。」
茶柱が静かに湯飲みの底に立って。
優しい湯気が揺れながら穏やかに漂う。
そんな中。
眉間のしわを深め、小さく溜息をついて、手塚が言葉を選ぶように言った。
「結局、どうして目の中にうろこが入っていたのだ?」
乾は腕組みをして、大石は顎に手をあてて考え込んだ。
疑問が解決されないままに、手塚は三人の湯飲みに茶を注ぐ。
静かに緑茶の湯気が揺れる。
今日もまた、優雅な午後の一時が過ぎてゆく。
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