タンポポ畑。
お昼休みにダブルスの作戦会議をやろう、と言い出したのは、他ならぬ菊丸であった。しかし、集合場所の3年6組に乾と大石が顔を出すと、河村と不二の二人しかおらず。
「英二は?」
「う〜ん、さっき、手を洗いに行くって、出て行ったっきりなんだ。」
困ったように首を傾げる不二。
「仕方がないやつだな。」
大石は微笑んで、少し溜息をつく。
都大会を前に、鉄壁のダブルス大石・菊丸組を強化し、河村・不二組も補強しておこう、という主旨で企画された作戦会議であったが、その噂を聞きつけて、菊丸に理論面を補強したい、という乾も飛び入りで参加することとなった。
お弁当持参で、お昼休みに3年6組に集合、という話になっていたのだが。
菊丸、不二の並んだ机を中心に、周囲から机と椅子を借りてきて、五人囲める場所を作る。各々が、その席を占めて。
大石の溜息。
本日、二度目の、深い溜息。
「手塚が心配?」
正面から切り込んだのは案の定、不二だった。
大石しか、手塚の肘のことを「知らない」。しかし、あれだけ近くにいながら、友達の変調に気付かないでいることなど、できるはずがない。
「大石は『知っている』から大変だろうけど、『知らない』僕たちも、結構大変なんだよ。」
「うん、そうだよな。ごめん。」
「それは大石の謝るコトじゃないだろ。」
乾が箸箱を器用に指先でくるりと回しながら、無表情に言う。表情などを通さなくても感じられる空気が、彼らの間には存在している。
「英二以外の三年生は、みんな、気付いているのかな。手塚のこと。」
「だろうね。菊丸は口が軽いから、知ったら大騒ぎだろうけど。」
「う〜ん、英二のへこんでいるところとか、見たくないしね。」
廊下を奇声を上げて駆け抜ける少年達の声がする。
大石と乾の言葉に、河村は少し考えるような表情をして。
「でも、英二、この前、俺に『ダブルスを二本先取して、絶対、大将戦にまで持ち込まないようにしようね。』って言ってたよ。なんとなく察しているんじゃないのかなぁ。」
きれいな色の卵焼きを口に運びながら、言葉を選ぶようにそっと言った。
不二も柔らかく微笑んで応じる。
「動物みたいなところがあるからね。英二は。勘がいいから。気付いていても、言っちゃダメって思ったら、絶対、何も言わないんじゃない?」
それで、ダブルス作戦会議、っていうことか。
しかも手塚抜きの。
大石はまた、小さく溜息をつく。
やりきれない。何かがやりきれない。
誰が悪いのでもなくて、だからこそ、辛くて。
そこにあるのは。
誰もが善意の中にある、という、広大な砂漠。
外は恐ろしいほどに晴れ渡っている。窓からは、校庭ではしゃぐ元気な声。たぶん、早弁したやつらが、いち早く飛び出して、野球とか、サッカーとか、思い思いに遊んでいるのだろう。
その声がふと途絶えた瞬間。
教室の半開きの扉が、勢いよく全開になって。
「わ〜〜〜っ!どうしよ〜〜〜っ!」
悲鳴を上げながら、菊丸が飛び込んで来た。
「どうしたの?英二。」
不二の慣れた対応に、クラスメイトとはこういうことか、と思う。
「あのさ、あのさ!さっき、俺、トイレの前の流しで手を洗ってたわけよ。そしたらさ、地理の先生が通りがかってさ。俺が水を出しっぱなしで、せっけん泡立ててたもんだからさ、先生が言うの。『お前、そんなことしてると世界中が砂漠になるぞ!』って。ねぇ、それってマジ?俺のせいで世界中、砂漠になっちゃう?」
一瞬。
この錯乱がどこまで本気なのかと、図りかねた一同であったが。
涙目になっている菊丸の表情から、それが本気だったと気付くと、なんとも対応のしようがなくなってしまう。
「英二、日本に砂漠はほとんどないんだよ。」
「え?ホント?タカさん。」
「うん、鳥取砂丘ってのがあるけど、それだけじゃないかな。」
「でも、あるんだ。砂漠……。」
河村のフォローは菊丸の不安を取り除くには到らなかったらしい。
困惑したように、周囲に助け船を求める河村に、乾が手をさしのべる。
「まぁ、鳥取砂丘はむしろ、だんだん緑化されて、狭くなっているらしいし、心配要らないんじゃないのか?日本の気候なら。」
「う〜〜。そうか、じゃ、大丈夫かな。」
せっかく、そこまで話を持っていったのに。
不二周助が口を挟む。
「でも、分からないよ?英二が水をむだにしたせいで、世界中にどんな影響が生じるか、分からないからね。バタフライエフェクトってやつ、知ってる?」
「知らない……。」
「チョウチョが羽をぱたぱたして、それで発生する小さな風があるとするでしょ。その風のせいで実は、次の日、竜巻が起こるかも知れない。小さなコトでも、積もり積もって何かの原因になるかも知れないんだ。だから、英二だってさ……。」
「ほえ〜〜。どうしよ。俺のせいで日本中が鳥取砂丘になっちゃったら〜〜。」
不二の術中に見事にはまったらしく、しばらく、涙目で菊丸はフリーズしていたが。
唐突になにごとか閃いたらしく、ぱっと目を輝かせた。
「日本中が鳥取になるのかなぁ。そしたら他の県名覚えなくて良くて、地理の試験、楽だよね!!」
そう言う意味じゃないだろう。
と。
その場に居合わせた連中はみんな、思ったが、なにぶん、相手が菊丸なので如何ともしがたい。果敢にいさめたのは珍しく大石であった。
「英二、日本全国が鳥取県だったら、俺達、『全国クラスのゴールデンペア』じゃなくて『鳥取クラスのゴールデンペア』になっちゃうよ?」
「え〜〜。それは少し嫌かも。」
それも少し違うだろう、とは、思わないわけでもなかったが。
菊丸が考え直したようなので、一同はそれで良しとした。
「じゃあさ、じゃあさ、不二、教えてよ。ばたばた……」
「バタフライエフェクト?」
「そう、それっ!俺が水を出しっぱなしにして砂漠が広がるんだったらさ、俺が何か別のことをしたら、砂漠に木が生えてくるんじゃない?」
また、突拍子もないことを言う。
菊丸の発想こそが、バタフライエフェクトみたいなものかもしれないが。
自分の机の中を引っかき回し、弁当箱を取り出すと、勢いよく、
「いっただっきま〜〜すっ!!」
と叫び。
箸をくわえて、また繰り返す。
「ばたばた……でなんとかしようよ!」
「どういう効果が出てくるか、分からないからバタフライエフェクトなんだよ?英二。」
「でもさ。でもさ。」
そこまで言いかけて、菊丸の視線がふ、と揺れた。
窓の向こう、青く澄み切った空を。
ふわり、と。
白い風船が飛んでゆく。
タコさんウィンナーをかみながら、菊丸はしばらく黙って、窓の外を見ていた。
大石も不二も河村も乾も、皆、一緒に、空の青に吸い込まれてゆく風船を見つめていた。
ダブルスの作戦会議も、手塚の肘も、忘れてしまったかのように。
そして。
ばたん!
と、箸を置き、机に手をついて、菊丸は叫んだ。
「そーだよ、不二っ!タンポポがあるじゃないか!!」
「……?」
さすがの不二も、その唐突な展開に付いて行きかねて、箸を握ったまま、首を傾げるが。
「タンポポ!そうだ、タンポポがあるよ。」
菊丸は一人、大いに納得したように、頷いた。
「タンポポをさ、ふぅって、吹いたら、綿毛が空に飛ぶじゃない。その綿毛がきっと、砂漠に届いて、砂漠にタンポポが咲くよ。みんなが綿毛をふぅって吹いたら、きっと砂漠はタンポポ畑になるよ。」
それは、計画的バタフライエフェクト、なのだろうか。
不二は乾を見、乾は河村を見、河村は大石を見、大石は仕方なく口を開く。
「種が落ちても、芽が出ないのが、砂漠なんだよ。英二。」
その言葉に、菊丸は憮然とした表情を浮かべたが、すぐに切り返した。
「じゃあ、雨を降らせようよ。俺達が校庭に水を撒いたら、砂漠に雨が降るかも知れないじゃないか!」
ふふっと、不二が笑い出した。
つられてみんな、笑い出す。
何を笑われているのか、分からないのであろう、菊丸はむくれたように頬をふくらました。
砂漠に。
それが砂漠だと知っていながら、種を撒く者がいるのなら。
ねぇ、そうやって種を撒き続けたのなら。
いつか。
砂漠は一面のタンポポ畑になるのかも知れないね。
「大石、サボテンにだって花が咲くんだよ。」
不二は柔らかく微笑んで。
大石も柔らかく頷いて。
「そうだな。英二なら砂漠を花畑にすることだって、できるかも知れないな。」
都大会、関東大会、全国大会。
どこまでも、どこまでも、タンポポの綿毛に乗せて。
記憶から、未来へ。
記憶が俺達に勇気をくれるように。元気をくれるように。
その記憶を未来の元気に変えて。タンポポの綿毛に乗せて。
あの黄色い花で砂漠を埋め尽くす日を信じていれば、俺達は砂漠を走り抜けることができるかもしれない。
「溜息をつく暇があったら、俺もタンポポの綿毛でも吹いてみようかな。」
そう言って、菊丸の頭に、ぽん、と手を置くと、菊丸はおにぎりにかぶりつこうとして大きく開いた口をそのままに、にっこりと笑った。
「うん!砂漠にだって、きっと花は咲くんだから。」
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