春の野原へ〜青学篇。


 彼の唐突さは、いつものことだった。
 ミーティング終了後の部室で、みなが帰り支度をしている中、ひらりとベンチに土足で飛び乗って、最高に面白いいたずらを思いついた子どもそのままの表情で、周囲を見回した。

「じゃーん。質問です!将来の夢は何ですか?」
「菊丸、とにかく、ベンチから降りろ。」

 容赦なく手塚の厳しい声が飛ぶ。さしもの彼も部長には逆らえない。身軽にぴょんと飛び降りると、しかしその指先を、手塚に向けた。

「はいっ、手塚くん。将来の夢は?」

 手塚は開きかけたかばんから目を上げ、一瞬戸惑ったものの、諦めたように答えた。
「会社員、かな。」
「え、なんだよ、それ。夢がないなぁ。」
「失礼なことを言うな。会社員には会社員の仕事がある。」
「まぁ、そうだろうけど。じゃあさ、会社入って、社長を目指したりするの?」

 悪気のない無邪気すぎる質問に、大石は部誌から菊丸へ、それから手塚へと視線を移す。あらかじめ片づけも着替えも終えていた大石は、部誌を書きながら、メンバーの帰るのを待っていた。静かに視線を向けたものの、菊丸の不躾な言葉に手塚は動じた様子もない。

「やるからには一番を目指すだろうな。」
「へぇ、さっすが手塚。将来は社長ね。覚えておこっと。」
 菊丸は満面の笑顔を浮かべて、くるりと回った。

「はいっ。次は桃城くん。将来の夢は?」

 手塚との対話を聞きながら、桃城は自分の解答を用意していたらしい。即座に答える。
「やっぱ、警察官でしょ!世のため人のためっ!!」
「にゃはは。桃らしいや。困ったときは、桃のうちに逃げ込めば、安心ってことだね。」
「っていうか、英二先輩、やばいことしないでくださいよ?」

 大石は、二人の言葉に軽い笑みを浮かべながら、再び、部誌に目を落とした。ミーティングの内容をまとめれば、今日の仕事は終わる。

「じゃさ、不二は?」
「ん?ボクの将来の夢?う〜ん、裕太と一緒に暮らすコトかなぁ。」
「いや、そういう夢じゃなくてさ、こんなものになりたいっての、ないの?」
 しばらく小首を傾げて考えている様子を見せた不二だったが、ゆっくりと口を開いた。
「そうだね。ベンチャー企業を興すってのも楽しそうだと思うんだけど。」
「べんちゃーきぎょー?」
「うん。IT関連でさ、グローバルな新規市場を開拓して、そのシェアを独占できたら、いいよね。独禁法に触れないようにしながら、新たな参入者を徹底的に排除するのとか、綱渡りみたいな人生で、なんかわくわくすると思わない?」
「……うー。そうかも。なんか不二っぽいね。」
 菊丸が理解していないことは誰の目にも明かであったが、不二が菊丸に理解させる気がないのも明かであったので、その話はそのまま流れた。

 シャーペンの走る音が聞こえる。大石が部誌を書いている音。みなは黙々と荷物整理や着替えに戻っていた。菊丸もようやく着替えを始めたらしい。
 部室を静寂が支配する。
 しかし、それももちろん、長く続くわけもなく。

「そうだっ。大石っ、大石の夢は?」
「え?」

 ペンを持ったまま振り返る。ちょうど、袖口に手を掛けてジャージを脱ぎかけた菊丸と目が合った。案の定、彼は期待で目を輝かせている。

「大石の将来の夢だよ。なんかないの?」
「う〜ん。」

 困ったように黙り込んだので、各々ロッカーなり荷物なりに顔を向けていた面々が、遠慮がちに副部長の方を振り返る。少し困った笑顔を浮かべたまま、大石は、

「みんなみたいな立派な夢じゃないんだけど、いい?」

 と尋ねた。
「う。いいよ?どんな夢?」
「うん。」

 椅子ごと、菊丸に向き直ると、大石は静かに言葉を選ぶ。
「春の終わりごろにさ、仲のいい友達と、その子どもたちと、そうだなぁ、六、七人でね、新しい春の服着てね、ちょっとおしゃれして、野原にピクニックに行くんだ。で、お弁当を食べたり、歌を歌ったりして、一日過ごして。川遊びをしたり、花を摘んだり。のんびり過ごした後、各駅停車の電車に乗って、みんなで揃って家に帰る、そういう優しい大人になりたい、かな。」
 それだけ言うと、ふいっと、照れ隠しのように、部誌に目を落としてしまった。

 部室は、なんとも言えない静寂に包まれて。
 数秒、世界がとまったようにさえ見えたが。
 その場にいた者たちは、確かにその瞬間、

 きらーんっ!

 という、菊丸の瞳が輝く音を聞いた、と思った。

 そして。
 だらしなくシャツを羽織っただけの菊丸が、唐突に、謎の奇声を上げて大石の背中に飛びついたのであった。
「大石ぃっ!!俺も!俺も!!そういう大人になりたいっ。」
 大石は相変わらず困ったような笑顔を浮かべて、菊丸に相づちを打っている。
 見ようによっては、間違いなく、いつもの光景、がそこにあった。
 だが、そうであっても、他の部員達が頭を押さえて、「うちの無敵ダブルスは、妙なところでまで一般常識を越えて無敵だ」と思っていたことは、言うまでもない。
 のどかな春の夕方であった。




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