これはきっと、悪い夢なんだ。
石田は目をつぶった。
自分は決してノリの悪いキャラじゃない。どちらかというと、不動峰の中ではノリの良い方だ。だけど……このノリの良さはいったい……?
「次は石田の番や。」
石田には中3の先輩に逆らうなどという気持ちは毛頭なかった。部活をないがしろにするような先輩なら別だ。だが、忍足も仁王も、熱心にテニスに取り組んできたのは容易に想像がつくし、それに見合うだけの実力がある。だから、逆らいたくない。他校の先輩であっても、立派な先輩には立派な後輩としてきちんと対応したい。
それが石田の本音だった。
なのに……。
石田は恐る恐る目を開く。眼前には、満面の笑みを浮かべた忍足と仁王の姿があった。
話は少し遡る。
石田が不動峰を出たのは、10時すぎのことだった。もちろん、不動峰がテニス部全員で参加するリクリエーション企画のためである。橘が卒業するまで、残すところ半年くらいしかない。あと、どれだけ一緒にいられるかなんて、考えるだけでも悲しくなるから、考えたくもない。そんな折に、降ってわいた企画である。橘が参加するのなら、不動峰の良い子たちが参加しない理由など、どこにもない。
得体の知れないリクリエーション企画だったにもかかわらず、全員が嬉々として参加を申し込んだのである。
誰が言い出した話だったのか、不動峰の顧問も定かには覚えていないという。
とにかく全国大会終了の数日後のコトだ。
せっかく子供たちがこれだけ仲良くなったのだから、関東近郊の学校で何かリクリエーション企画の一つもやってみようじゃないか。
そんな話が持ち上がった。
希望者参加の小さな小さなイベント。
部長が全員分申し込んだ学校もあったし、各人好き勝手に登録した学校もあった。
どちらでも良い。
とにかく自由参加で楽しんで欲しい。
そんな顧問、監督たちの思いを込めて作られたイベント。
その名も。
人間オリエンテーリング。
地図片手に目的地を走破するのがオリエンテーリングなら、メンバー表片手に目的のメンバーを全員集めるのが人間オリエンテーリング。
それぞれの生徒に与えられるのは、自分のグループのメンバー表と1つか2つ文字が書かれたカード。
全員集って、文字札の文字を正しく並べたなら次の目的地が分かる、というルールだけは単純なゲームである。
集まり方は自由。
他のグループと助け合っても良し。
自分たちだけで頑張っても良し。
不動峰から駅に向かう途中で合流した桜井は、どうもリーダーのいる学校には向かわない様子であった。だが、石田はメンバー表を見るかぎり、リーダーのところに行く以外、妥当な手段が思いつかず、とりあえずは氷帝に向かうことにした。
石田の手にしたメンバー表は以下のとおりであった。
忍足侑士(氷帝中/中3/リーダー)
仁王雅治(立海中/中3)
石田鉄(不動峰中/中2)
喜多一馬(山吹中/中2)
壇太一(山吹中/中1)
山吹からのメンバーが2人いる。だけど、2人とも中3ではないのだから、きっと先輩たちのいるところに向かうだろう。そうなれば、立海か氷帝のいずれか。二択だったら迷うまでもない。リーダーがいる方に行くに決まっている。
そう思って、石田は氷帝に向かった。
そして案の定。
氷帝で参加メンバー5人が勢ぞろいすることとなったのである。
「早いですだーん!」
壇が嬉しそうにメンバーを見回した。
神奈川から駆けつけた仁王の到着は少し遅れたが、それでも11時すぎには全員が揃っていた。
「すごいな。」
石田は小さく微笑んで、喜多に耳打ちする。特別親しかったわけじゃなくても、こういうときは、同じ学年だというだけで、不思議と親近感がわいたりするものだ。石田の言葉に喜多がうなずく。
「忍足さんは実は地味なのかもしれないのだ。」
喜多の言っている意味はまったく分からない。だが、忍足を褒めているのだろうなとは見当がついた。要するに「忍足さんは南さんみたいだ」と言っているわけだから。それは石田にしてみれば「忍足さんは橘さんみたいだ」と言っているのと同じ意味。最上級の賛辞である。
「目的地も分かったし。余裕やな。」
時計を見上げて忍足が大きく伸びをした。
ゴールは全国大会の会場。このメンバーで勢ぞろいするのなら、一番「当たり前」な空間である。文字札を並べたとき、まったく驚きはなかった。
ああ。やっぱりここなんだ。
そんな想いが浮かんだだけであった。
全国なんて、遠い遠い夢だと思っていたのに。
全国の常連、王者立海や氷帝、山吹の仲間たちと、「仲間」としてこんな遊びに参加できる日が来るなんて思ってもいなかった。
石田はかばんをあさると、橘が持たせてくれた手作りおはぎの容器を、氷帝部室の衛生的な机の上にそっと置く。
「あの。おはぎ、要りませんか?」
そんな大切な人たちと、大事なおはぎを分かち合うことができる。それが何よりも嬉しかった。
「おはぎ?」
「橘さんが作ってくれたんです。」
「へぇ。九州二強特製のおはぎじゃな。」
橘さんは九州二強じゃない、とは石田は突っ込まなかった。というか、九州二強として作ったわけじゃないし。おはぎだし。
よく分からないが、壇はメモ帳に何かを懸命に書きつけながら、おはぎを味わっている。
「壇くん、何メモしているの?」
「おはぎのデータですだーん!これさえあれば、九州二強対策も万全です!」
もしそれが本当なら、すごいことやな、と忍足は素直にそう思った。だって、おはぎ観察しただけやで?跡部のインサイトでだって、おはぎ一個で相手の弱点は見抜けへんで。
だが、壇はネタのつもりはないらしい。真剣な表情でおはぎメモを作成している。
「おはぎも食べおえたところで、ネタの調整じゃ。」
仁王がずずっと茶をすすりながら宣言する。
「ネタ?」
まっすぐに問い返す石田に、忍足は穏やかにうなずく。
「ネタや。こんなお祭り、めったにないで?ネタのひとつも仕込まないでどないすんねん。」
こんなお祭りがめったにないことには異存はなかった。
だけど、ゴール地点に集合するにあたって、ネタを仕込まなきゃいけないかどうかには、ちょっとだけ異存があった。というか、かなり異存があった。
関西系の先輩だからな……。
石田はきっと当惑しているであろう喜多と壇に視線をやって、ちょっとだけ動揺する。2人とも、ネタを仕込む気満々のやる気に満ちた目をしていた。
「ネタって何をやるですか?!」
大人しめな学校と見せかけて、山吹のノリの良さは相当なものである。喜多だっていやな顔などしはしない。
「そうやな。仁王がおるんやから……変装ネタがええんちゃう?」
当たり前のように提案する忍足に、当たり前のように喜多が応じる。
「望むところであります!」
変装か。
その時点では石田もさほどうろたえてはいなかった。伊武だったらいやな顔をしただろうが、石田はこういうノリも嫌ではない。せっかくのお祭りだし、楽しむに越したことはない。みんなで変装だなんて、楽しそうには違いなかった。
だが、世の中、そう甘くはない。
「制服の都合もあるし、全員、自分の学校の誰かに変装しいや。」
忍足の指示に仁王が何度もうなずいた。
「それがええな。」
なるほど、それは合理的である。
「じゃ、俺は跡部でもやるか。ネタにしやすいからな。」
忍足の言いたいことは良く分かる。確かに跡部ならネタにしやすいし、たとえあまり似ていなくても「跡部の真似」をしていることを伝えるのはたやすいだろう。
「なら、わしは幸村で行こか。」
部長対決、ということだろうか。仁王は幸村になるべくかばんを漁り始めた。さほど大きく見えないかばんであるが、次から次へと変装道具が出てくる。それを机に並べながら、仁王は嬉しそうに喜多を見た。
「新渡米に変装するための葉っぱもあるんじゃが、使うか?」
「もちろん使うであります!」
喜多が目を輝かせる。
いったい、どうして仁王さんはそんなものを持っていたんだろう。もしかして新渡米さんに変装したことがあるんだろうか?だとしたらいつ?どんなときに?!というか、どうやったら、あの葉っぱ、頭に載せられるんだ?!
石田の心には疑問符が飛び交っている。だが、お構いなしに話は進んだ。
「壇はどないする?南でも千石でもできそうな髪形やな。お前。」
バンダナをずいっと押し上げながら、壇ははにかんだように頬を染める。
「亜久津先輩でもいいですか?」
「亜久津?」
聞きなれない名なのだろう。そのまま反芻した仁王に忍足が説明する。
「都大会で退部した山吹の怪物や。青学の越前とやりあったらしいが、俺も写真でしか見たことない。」
「だけど、立海と氷帝は部長を出すのであります!山吹からも南さんがいた方がいいであります!」
喜多の言葉に仁王と忍足は顔を見合わせた。それもそうか、といった雰囲気である。そうは言いながらも喜多は新渡米に変装する気であるのだから、必然、壇は南に変装する流れになろうか。
っていうか、髪型だけ並べたら、亜久津さんも南さんも、大差ないんじゃないか?どっちにしろ壇が変装する分には、見た目も大差ないんじゃないのか?
と、石田は考えてみたが、あまり深く考えるのはよそう、と心を入れ替えた。
というのは、ひとつ重要なことに気づいたからである。
いやいや、これはきっと、悪い夢なんだ。
石田は頭を振りつつ、目を閉じた。
「分かったです!じゃあ、僕、南部長……じゃないです、南さんをやるです!」
調子っぱずれなほどに気合十分の壇の声。忍足と仁王の視線がこちらに向いたことを、石田はうっすらと感じた。実際には視線など感じられるはずもないけれど、なんとなくそんな気がした。
いや、そうならざるを得ない。
「次は石田の番や。部長を並べるんなら、石田はやっぱり橘をやらないとな。」
「そうじゃ。不動峰だけ部長がおらんようではいかん。」
「背格好からしても、髪型からしても、橘やるのが一番いいやろうしな。」
忍足と仁王の言葉に、石田は絶句した。やっぱりそうだった。予想通りではあったが、石田はうろたえる。
橘さんの真似なんか、できない!そんなこと、無理!絶対、無理!
そりゃ、中2仲間で橘さんの真似とか、やらないわけじゃないけど!「悪いな。15分で終わっちまった。」とか言うけど!橘さんのいるところでは絶対やらない!ってか、やれない!無理!
固まってしまった石田に、忍足が問う。
「いやか?」
「いやです!っていうか、無理です!」
即答する石田。
「橘さん以外だったら、誰でもやります!だから、橘さんだけは勘弁してください!」
必死の石田の懇願に、忍足と仁王は顔を見合わせた。
「そんなに言うんなら、ほかにしようか。」
「そうじゃな。だったら、橘杏ならどうじゃ。」
真顔で提案する仁王。
さらに凍りつく石田を見て、仁王はにやりと笑った。
誰の真似でもやると言った手前、石田は反論できない。いやだなどとは決して口にできない。
ああ。もう、これは夢!間違いなく悪夢!決定!
凍りついたまま、心で涙ぐむ石田に助け舟を出してくれたのは、意外にも忍足だった。
「あかん。それは石田が美味しすぎや。」
助け舟の出し方はいささかずれている気がしないでもない。だが、石田には地獄に仏である。
「そやな。確かにそれじゃ、石田が美味しすぎる。ほかを考えるか。」
仁王も納得したらしい。引き下がった。
……美味しいのかな。それ。
微妙な疑問を胸に抱きながら、石田は再度命拾いした想いで、息を吐く。
「じゃあ、誰に変装するのだ?」
すでに葉っぱ装着済みのやる気にあふれた喜多が尋ねる。確かに反対するばかりではしょうがない。せっかくのお祭りだ。みんなが楽しもうとしているところで、水を差したくはない。
「……あの。」
石田はしばらく考えて口を開く。
「ばらばらに変装していくんでも良いですけど、何かまとまったテーマで変装したほうが、面白くないですか?」
「まとまったテーマ?」
「たとえば……全員で、青学レギュラーの変装をするとか。」
青学の名前を出したのは、特に含みはない。だが、やはり覇者は覇者である。
「なるほど。ばらばらよりも、王者青学のレギュラーをそろえる方が面白いか。」
ふむ、と忍足はあごに手を当てて。
「どや?目立つし、面白いし、美味しい気はするが。」
と全員の顔を見回した。
「ぷり。」
仁王がうなずく。誰も異論などあろうはずがない。お祭りは楽しいに越したことはないのだ。
「青学だったら、僕、越前くんをやるです!」
挙手をして名乗りを上げる壇。
「俺は手塚やな。メガネのよしみで。」
忍足がにやりと笑う。
「髪いじれないんで、俺、海堂やっていいっすか?」
石田がタオルをバンダナに持ち替えながら尋ねて。
「石田が海堂なら、俺は桃城をやるであります!」
芽をそっと外しながら、喜多がやる気を見せた。
「わしは不二周助でもやるか。」
変装道具セットを机の上で広げながら、仁王が楽しそうに目を細める。
12時前にはネタの仕込みも完了した。
「俺は上に行くよですだーん!」(壇)
気合の入った壇の声。
「ふしゅー!」(石田)
石田もだんだん乗ってくる。うきうきしてくる。たかが変装。されど変装である。
「遊びたりねぇな!遊びたりねぇであります!」(喜多)
まだまだゲームは半ば。これからが最後の仕上げ。
「自分、オリエンテーリングの柱になり!」(忍足)
ゴールに向かって出発する準備も整って。
「こんな青学、滅多に味わえないじゃろ。」(仁王)
不二を真似て仁王が低く尋ねれば、全員が一斉に吹き出した。
そりゃ、そうだ。こんな変な青学、滅多に味わえるはずがない。
悪い夢、ではない。
きっと、これは楽しい夢。
ゴールに行けば、不動峰の仲間たちにまた会える。
彼らは笑ってくれるだろうか。
一緒に楽しんでくれるだろうか。
「行こうぜ。全国大会会場!」
「仁王。それは不動峰や。」
笑いさざめきながら。
「勝つのは俺ですだーん!」
「跡部さんだろ。それ。」
いろいろ間違えながら。
「油断せずに行こか。」
ゴールはもう分かっている。
そこに心地よい夢の結末が待っているはずだった。