第二次妖精さん事件。


 跡部は激怒した。

「青学と山吹の顧問の方が、榊監督より良いってのかっ?!」

 ときは関東大会緒戦、S3の始まる寸前。
 妖精さん事件の顛末を密偵の報告で聞いた跡部部長は口を開くなり、憎々しげにこう言い放った。
 跡部が腹を立てたのは、榊監督を慕っていたからではなく、こっちよりあっちの方が良いと言われたからである。自分がいる方が負けるのは我慢できない。要は、完璧なまでのおれさま主義者なのである。

 ご無体な相槌を求められながらも、樺地は迷いなく答えた。

「勝つのは氷帝っす。」
「そうだな。当たり前のことだ。」

 樺地の模範解答に、ようやく安心した様子の跡部は、何度も力強く頷く。
 しかし、日差しが彫りの深いその横顔に陰を落とし、顎に手を当てて何事かを考えている跡部の眼に、憂いの色が浮かぶ。初夏の風が木陰を揺らし、テニスコートに木漏れ日がちらちらときらめいていた。

「しかしあの二校の顧問がお花の妖精さんだというのは手強いな。さすが、我が氷帝のライバルだ。」
「……うす。」
「竜崎スミレがスミレの妖精さんで、伴田の爺がパンジーの妖精さんか。ファンシー路線で氷帝に挑もうってんだな。ちっ。対策を考えるか。樺地。」
「…………うす。」
「監督は……お花の妖精さん、じゃなさそうだが……、あの服のセンス、言葉遣い、どうも人間離れしたところがおありだな。」
「……うす。」
「……榊監督、だからな。……も、もしかして、樺地!監督は榊の樹の妖精さんなのか?」「…………。」
「榊ってあれか?京都は洛中、下鴨神社の鎮守の森、糺の森に生えている連理の榊か?!連理の榊って言ったら、あの、あの、縁結びの神さまか?!そうなのか?樺地!!」
「………………。」

 跡部は興奮のあまり、思わず樺地の髪を鷲掴みにした。
 逆らいもせず、困惑した様子で跡部のなすがままになっていた樺地だが、しばらくすると穏やかに口を開く。

「S3が始まります。」
「……あ、あぁ、そうか、試合か。……15分で片づけてこい。」

 跡部の頭の中は、監督の正体でいっぱいだったが、よく考えたら今はそれどころではなかったのである。とりあえずは樺地がとっとと試合を終えて、帰ってきてから続きを検討しよう、と頭を切り換える。
 しかし。
 樺地は負傷し、病院に行ってしまった。

「行ってこい。樺地。」

 ポイントは「行け。樺地。」ではなく、「行ってこい。」なところである。正確には「早く帰ってこい。樺地。」なのである。
 榊監督疑惑を解明するためには、樺地の存在が不可欠だ、と跡部は考えていた。
 樺地の「うす。」のタイミングこそが、跡部の思考を整理する最良のアドバイスであり、それなしに複雑で高度な論理構築をなしとげることはできない。跡部はおれさま主義者であると同時に、強度の樺地依存症であった。

 視野にあの巨体がいない。
 それだけで不安になるほどには、ひどい依存症ではない。
 少なくとも、本人はそう思ってはいたが。

 樺地め。
 試合ならともかく、試合が終わってまで俺のそばを離れやがって。
 これでは監督の正体が分からないままじゃねぇか。
 気になって、いらいらするじゃねぇか。
 しっかし、監督は榊の妖精さんなのか?しかも縁結びの妖精さんなのか?
 樹の妖精さんなら、お花の妖精さんに勝てるのか?
 ファンシー路線で対決したら、負けそうだが、どうも呪い系で対決してもあぶない気がするな。
 ちっ。

「ジロー先輩、起きちゃいましたね。」

 ふと、鳳に声を掛けられて、S2が始まったことに気付かされる。隣りにいるのが樺地ではなく、鳳であることは、ますます樺地の不在を強く感じさせて。
 だが、自分は部長である。
 跡部は再び、頭を切り換え、試合に目を向けた。

 そして、あっさりと試合は決着が付き。
 それでも樺地は帰ってこなかった。
 見上げれば、テニスコートをめぐる木々の合間から、太陽のかけらがこぼれている。風はまだやまない。

 馬鹿者!俺の試合が始まるだろうがっ。
 監督の件が解決しないまま、試合に出ろってのかよっ。
 気になるじゃねぇか。

 だけど。
 もし、監督が樹の妖精さんだったら、コートの周りの木々は、氷帝の味方なのか?
 それって、お花の妖精さんより、ずっと味方が多くて有利じゃねぇか。
 ……待てよ?
 ってことは。
 ……樺地はもしかして、白樺の妖精さん、なのか???

 風に乗って、聞き慣れた「うす。」という声が聞こえたような気がした。

 ……白樺の、妖精さん、か……。

 うっとりと、跡部は頭の中でそのフレーズを繰り返す。
 なんか、ちょっと、良いかも知れない。
 跡部の思考回路は素晴らしい速さで回転を始めた。

 ってことは、なんだ、あれか?
 軽井沢の俺の別荘の周りには、樺地の一族の連中がいっぱい住んでるってことか?
 もしかして、樺地みたいなのがいっぱい隠れてるってことか?
 ……集団樺地、なのか……。
 ……すごい。すごいぞ、樺地っ!!

 跡部の脳みそは、みごとにヒートアップした。
 その瞬間、氷帝コールがわき起こる。
 そう、S1開始の時間が迫っていたのである。
 跡部は部長であった。責任感に満ちた優秀な部長であった。
 いくら悩みがあっても、部長としての責務はきっちりとこなさなくてはならない。
 彼は迷うことなく、自信に満ちた顔つきで、コートに足を踏み入れた。
 その力強い足音が歓声の中に響き渡り、氷帝コールはどよめくようにさらに強まる。
 天を指さしつつ、跡部は思った。

 だが、心配するな、樺地。
 どんなにお前の一族が、お前そっくりだったとしても。
 俺はお前を見付けてみせる!!

 強い確信を表情ににじませながら、跡部は手塚を睨み付ける。

 だから、早く帰ってこい!樺地!

 心にそう呼びかけて、指をパチリと鳴らす。
 周囲からわき起こる激しい跡部コールを越えて、「うす。」とあの相槌が聞こえた。
 少なくとも、跡部はそう思った。
 それに応えるように満足げに微笑むと、バサッと上着を脱ぎ捨てながら、小さく頷き、遠い樺地に語りかける。

 今年の夏休みは、お前も軽井沢に連れて行くからなっ!
 お前を見つけだすのは、俺だ。
 そう。
「俺だ!」

 歓声がひときわ高まる。
 そんな中、何事にも動じないような調子で、手塚がおっとり尋ねてきた。

「もういいのか?」
「ああ、満足だ。」

 ためらうことなく即答するほどに、跡部の悩みはすっきりと解決していた。
 これで試合に集中できる。跡部はもう一度、満足げに微笑むと、手塚の拳におのれの拳を合わせた。

 跡部の脳裏からは、榊監督が縁結びの妖精さんなのかどうか、なんて問題は、もうすっかり消えてしまっている。
 これが氷帝の最高機密、妖精さん二次災害事件の顛末、であった。



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