新世界より～青学篇。

　手塚は悩んでいた。
　五月の風が教室に吹き込んでくる。
　小さく溜息をついて、手塚は天井を見上げた。
「どうしたんだ？」
　背後から声を掛ける大石。
　少し驚いて振り向いた手塚は。
「ああ。」
　と頷くだけ頷いて、そのまま沈黙する。
　昼休みの教室。
　弁当箱を手塚の机の隅に置くと、大石はそばの椅子を引き寄せた。
　カーテンが揺れている。五月の風は明るい色。
「何か気になることでもあるのか？」
　部活のこと、生徒会のこと。
　手塚が気にかけなくてはならないコトはいくらでもある。
　悩みなら尽きないはず。
　ゆっくりと頬杖をついて手塚の表情をのぞきこむと、手塚は困ったように大石の目を見つめ返す。
「下らないコトだ。」
「良いよ。下らなくても。」
　穏やかな大石の言葉に、手塚は観念した様子で目をそらした。
　こうなったら大石はあくまでも引かない。手塚の悩みを聞くまで、大石は何度でも同じコトを問いかける。大石には分かってしまうのだ。手塚が本当は聞いて欲しいと望んでいるのか、本当に話したくないのか、などというコトくらい。
　小さく息を吐くと、手塚が口を開く。
「ぞっとする、という言い方があるだろう？」
「ああ。」
　大石の相槌を聞いて。
「これを見て欲しい。」
　机の中から電子辞書を取り出した手塚。何かを入力して差し出す。

ぞっと
寒気・畏怖・恐怖などで瞬間的に心身が縮むような冷気を感ずるさま。

「これがどうしたんだ？」
　大石が首をかしげれば、手塚はもう一度電子辞書に何かを入力し直して、差し出す。

ぞっとしない
それほど感心したり面白いと思ったりするほどでもない。

「困らないか？」
「困る……のか？」
　真顔で訊ねる手塚に、真顔で問い返す大石。
　手塚は深く頷いた。
「俺が、寒気も畏怖も恐怖も感じていない上に、感心していたり面白いと思っていたりするとき、俺はぞっとしているのか？していないのか？」
「……え？」
　
　手塚の問いかけに、大石は先ほどの辞書の定義を思い出す。
　確かに「ぞっとする」「ぞっとしない」は反対語ではないようで。
　じゃあ、「ぞっとする」わけじゃないときは、どうすれば良いのか。
　手塚はそれで悩んでいるらしい。
　何に悩んでいるかはわかった。だが……。
　答えに困った大石にかっこうの助け船。
「なるほど。これは困るな。」
　頭上から低い声が振ってくる。
　そして机の上にことりと弁当箱を置く。
「乾。」
　見上げずとも分かる友の声。
「まさに『ぞっとしない』わけではない、というヤツだ。」
「うむ。」
　手塚が頷く。
　がたんと椅子を引き腰を下ろすと、乾は手塚の顔を正面から見据えた。
「ところで知っているか。手塚。『ゾケサ』の話を。」
「……いや。知らん。」
　五月の陽射し。
　五月の若葉。
　窓の外には初夏の匂いがあふれている。
「『蛍の光』という歌を小学校で習っただろう？」
「うむ。」
「習ったな。」
　乾は淡々と弁当箱を開く。それにつられて手塚と大石も弁当箱に手を伸ばした。
「歌詞にあっただろう？いつしか年もすぎの戸を……あけてゾケサは別れゆく、と。」
　弁当箱の蓋を手にした大石が目を見開く。
「あけて、ゾケサは、別れゆく……？」
　静かな昼休み。教室のざわめきが遠い。
「あけて……ゾケサ……？」
「どうした？大石？」
　メガネを軽く光らせて問う乾。
　驚いた様子もない手塚は箸を手にして小さく「いただきます」と呟いた。

「ゾケサが別れて旅立つ。その姿を見て、我々は自らの新たな旅立ちを予感する。それが『蛍の光』のクライマックスだ。歌ったコトはないか？」
「いや……その……えっと。」
　蓋を手にしたまま、大石は瞬きを繰り返す。
　その隣で手塚がぱくりと里芋を頬張っていた。

「そのゾケサ族の言い伝えにこういう言葉がある。」
「うむ。」
　手の中でくるりと箸を回す乾。
　手塚は軽く相槌を打つと、大石に目をやった。
「食わないのか？」
「あ。うん。食べるよ。」
　慌てて箸を取る大石。

「で、ゾケサ族の話だが。」
　くるり、と乾はもう一度箸を回す。
「うむ。」
　手塚が弁当箱から目を上げた。
「Zotto　Ergo　Sum、という言葉がある。」
「……うむ。聞き覚えがあるな。」
「そうだろう。」
　大石は箸を握りしめている自分に気付く。
　それ、何語だ？ゾケサ語なのか……？
　乾がノートの端を軽く指先で弾いて、一語ずつかみしめるように言った。
「我、ぞっとする、ゆえに、我あり、という意味だ。」
「深いな。」
「深すぎたか。」
　手塚の視線の先には箸を握ったまま凍り付いた大石の姿があって。
「ふむ……大石にムリなら、中二や中一には完全にムリだな。」
　乾がふぅっと息を吐いた。

　五月。
　春と呼ぶには温かすぎる陽射しの向こうには初夏の気配が満ちていて。

「大石。食わないのか？」
　手塚が呼びかける。
「あ。うん。食べるよ。」
　慌てて箸を弁当箱に突っ込みながら大石は考えた。
　俺、なんでこいつらと一緒に昼ご飯を食べているんだろう……？

「とりあえず大石。ぞっとしない話題でぞっとさせて悪かった。」
「……えっと？」
　乾が詫びる言葉の意味すら、もう何がなにやら分からない。
「お前の困りようを見ていると、越前や海堂にもこのネタを振ってみたくなるな。」
　きらりと光る乾のメガネに。
「うむ……油断せずに行こう。」
　手塚が力強く頷いた。
「ちょっと待てよ。二人とも。」
　どこまでが冗談で、どこまでは本当の話だったのか、さっぱり分からなくなっていたけれども。
　大石は大石なりに、この二人のことを大切に想っているのだけは確かなコトで。
「俺、話についていけなかったんだけど、結局、手塚の悩みは解決したの？」
　まっすぐな大石の視線に。
　手塚はふと柔らかな笑みをもらした。