猫の居る風景〜峰篇。
<冒頭文企画連動SS>



 べべ様!!
 神尾は立ち止まった。
 また来てんのかよっ!邪魔だっての!
 視線の先を悠然と横切る「べべ様」に、軽く舌打ちをして足下の小石を蹴る。こん、と固い音を立て、小石は校舎の壁に跳ね返って転がった。
「アキラ?どうした?」
 中二の教室から部室へと向かうルートなど、いくつもあるものでもない。鞄を担いだ桜井が、不審そうに背後から声を掛けてくる。
「べべ様だよ。」
 コートの方を指さして、唇をとがらす神尾。
「ん?ああ。」
 テニスコートの隅っこにあるベンチは桔平の定位置である。その定位置に、悠然と寝そべる「べべ様」の姿に、桜井は苦笑した。初夏の陽差しが木々に遮られ、気持ちの良い日陰となるベンチは、猫にとって最高の昼寝場所なのだろう。
「またか。」
 「べべ様」は不動峰の辺りをテリトリーにしている小さなトラ猫である。子猫ではないが体は小さくて、それでいて全く人を怖がらない。物怖じしない猫であった。


 ある日いきなり「べべ様」はコートに姿を見せた。
 転がっていたボールにじゃれついて、ころころと遊んでいたのに、石田が気付いたのが最初である。
 「べべ」という謎の名前を付けたのは桔平であった。何のためらいもなくその猫を「べべ」と呼ぶ桔平に、中二の良い子たちは、てっきり桔平の知っている猫なのだろうと思いこんでいたのだが。
「どこの猫なんですか?」
 にこにこと尋ねた森に、桔平ははっきりと言いきった。
「いや。知らん。初めて見た。」
 しかし。
 トラ猫は、桔平が呼ぶたびに、素直に「にゃう!」と高い声で返事をした。
 トラ猫的には、「べべ」という名前でオッケイであるらしかった。
「猫のくせに、シッポなんか生やしやがって。」
 そんな不条理ないちゃもんを付けられながら、桔平に撫でられて「べべ様」は嬉しそうに喉を鳴らした。
 その日以来、「べべ様」は桔平に懐いているのである。


「なんであの猫、『べべ』なんだ?」
 石田の疑問に誰もが首をひねる。
「『べ』が付く言葉ってあんまりないよね。」
 と、森。
「確かにそうだよなぁ。」
 昼休みの中二の教室で、何をするともなく集まっていた良い子たちは一生懸命考えた。
「『跡部』さんの『べ』とか?」
「ああ。跡部さんみたいに偉そうだよな。あの猫。」
 神尾の言葉に一応は内村は賛同してみたが、そんな理由で桔平が名前を付けたとも思えない。
「『弁当』の『べ』?」
「『ベッカム』の『べ』?」
「『ベリーベリー』の略で『べべ』?」
 なかなか妥当な見解が見あたらず。
「……分かんないな。」
 ふぅっと溜息をついて伊武が目をやる窓の外を、悠然と「べべ様」が歩いていく。


「橘さん?!」
 しゃがみ込んでいる桔平の姿にびっくりして、気分でも悪いのかと桜井が駆け寄る。
 もう少しで部活が始まる時間帯。
 制服のまま、桔平は鞄を地面に置いてかがみ込んでいたが。
「どうした?」
 立ち上がりつつ振り向いた桔平の腕の中には「べべ様」がいた。
 なんだ。猫と遊んでただけか。
 少し安心しながらも、心の隅に何か引っかかるモノを感じて。
「そういえば。」
 その気持ちの正体くらい、桜井には分かっていたのだけれども。
「なんでその猫、『べべ』って言うんですか?」
 桜井はオトナだったから、その気持ちから目をそらす。
「ああ?」
 桔平は桜井と「べべ様」を見比べ、それから小さく笑い。
「この辺、『べべ』ってなってるだろ?」
 片手で抱え直した「べべ様」の、脇腹辺りのトラ縞模様を指さした。


 「べべ」の由来は分かった。
 確かに「べべ様」の腹の模様は「べべ」と読めないわけではない。
 本当のことを言えば「へへ」なんじゃないかと思うのだが、「へへ」ではなく「べべ」と呼んだのは、たぶん橘さんの優しさなのだろうと思う。そもそも「へへ」は呼びにくい。
 だけど。
 そんなコト言ったら、たいがいのトラ猫は「べべ」か「くく」なんじゃないか、と。
 桜井の話を聞いた伊武は、延々35分間、脳内会議室で大演説をブチ上げたのだが。
 その後、会議室を埋め尽くす総勢300人の伊武たちは、2時間に及ぶ侃々諤々の大議論を展開してみたのだが。
 橘さんが決めたコトならそれで良い。
 と、極めて穏当な結論を採択することに成功した。
 しかしそれもかなりの僅差での採択であったので、伊武の脳内議会に微妙なしこりを残すコトになった。


 名前の由来が分かってからも、一つ重大な問題が残っていた。
 それは。
「べべ!」
 不動峰の良い子たちがどんなに呼んでも、「べべ様」は振り向きもしないというコトである。桔平が呼んだときにしか、「べべ様」は振り返らない。桔平が呼べば、昼寝をしている最中でも、ぱっと飛び起きて駆け寄って行くというのに。
 そこで。
 石田と森が調査をしたのである。
「いろいろ呼んでみたんだけど。」
 石田が大まじめな顔で仲間たちに報告した。
「『べべちゃん』『べべくん』『べべ氏』なんかは反応なし。『べべさん』『べべ先輩』のときはちらっとこっちを見た。で、『べべ様』って呼んだときだけ、ちゃんとこっち振り向いた。」
 グランドの隅で、延々「べべ様」に呼びかけ続けた石田と森の根気は偉いと思う。
 いろいろ試してみよう、という気持ちは大事だと思う。
 コミュニケーションを試みることは、重要だと思う。
 だけど。
 何か違うんじゃないかなぁ、と桜井は思いつつ。
「だからね、あの猫に用があるときは、『べべ様』って呼ぶと良いよ。」
 大発見したかのようににこにこと報告する森に。
 内村は何となく悲しい気持ちになってきた。
 ってか、「橘さん>『べべ様』>俺たち」ってコトかよ!
 中一で習った不等号をなぜか思い出してみたりしながら。


 中二と中三では時間割が少し違うので、桔平だけ遅れてくる日もある。
 そんな日は、中二だけで部活を始めるコトになるのだが、そうと知ってか知らずか、「べべ様」はそれでもきちんと桔平の定位置にスタンバイして、桔平が来るのを待っている。
 大人しくしているなら、まだ良い。
 時折、誰かが下手なボールを打ったりすると、すかさず。
「にゃぁ!」
 非難めいた声を上げて、馬鹿にしたように鼻を鳴らしたりするのである。
「『べべ様』のヤツ、むかつく……!」
 一番最初に不満を口にしたのは内村だった。それまでは皆、心に思っていても、口には出さずにいた。
 橘さんが可愛がっている猫だから。
 それが不満を口にしない理由でもあったし、それが一番腹立たしいところでもあった。
 猫相手にヤキモチを焼くほど子供じゃない。
 そんなプライドが彼らにだってあった。
 だが、一度誰かが口火を切れば話は別である。
「マジむかつくよな!『べべ様』!今度、捕まえて背中のファスナー開けてやろうぜ?」
 鼻息も荒く息巻く神尾に。
「だよな!中のヤツ、引きずり出して、ぼこぼこにしてやる!」
 内村も力強く同意し。
 桜井と石田と森は顔を見合わせた。
「……『べべ様』って中に人は入ってないんじゃないかなぁ……?」
 ようやく意を決した様子で森が恐る恐る口を開くと。
「絶対入ってるって!」
 はっきりと神尾に反論される。
「だって、あの態度見ろよ。猫とは思えねぇだろ?」
 内村の言葉に、何となくそんな気もしてくる。確かに「べべ様」には変に人間くさいところがあった。だが。
「入ってるとしたら、かなり小さい人だよなぁ。」
 内村と「べべ様」を見比べてしみじみと石田が言うので、何となくそれでその話は終わりになった。
 仮にも桔平の可愛がっている猫である。
 口では「ぼこぼこにしてやる」なんて言ったとしても、神尾にも内村にもそんな意志がないのは明らかであった。
 桔平に怒られるのが怖いからではなくて。
 桔平を怒らせたり、悲しませたりようなコトはしたくないのだ。
 それが不動峰の良い子たちの偽らざる本当の気持ちである。
 だからこそ、余計「べべ様」に腹が立つのでもあるけれども。


 放課後のいつもの部活で。
 コートでは桜井と石田が打ち合っている。
 水を飲みに抜けていた伊武がコートに戻ってくると、石田たちの打ち合いを眺めていた森の横に立って。
「……。」
 くるりと手の中でラケットを回転させる。
 そして、きゅっとそれを握り直すと、髪を掻き上げ、すたすたと石田たちの打ち合うコートに足を踏み入れた。
「深司!」
 焦った森の声に、石田と桜井もそれに気づいて打ち合いをやめる。
 そして伊武の向かう先に目をやって、小さく声を上げた。
「うわ。」
 伊武の視線の先には。
 いつものベンチに腰かけ、石田たちを見守っている桔平の姿があって。
 その膝の上には気持ちよさそうに眠る「べべ様」がいて。
 ふぅっと森が諦めたように小さな溜息をつく。
「橘さん。」
 練習中のコートを横切って、いきなり目の前に現れた後輩を見上げ、桔平は少し驚いた様子だった。
「ちょっとフォーム見てもらえませんか?」
 伊武の、淡々とした、しかし真剣な声。
「……深司ってときどきすげぇ素直だよな……。」
 神尾が苦笑混じりの言葉に、内村が頷いた。苦笑混じりになりながらも、誰も伊武を止めようとしないのは、きっと伊武の「橘さんを猫になんか取られてたまるか」というムダな「素直さ」に、どこか共感するところがあるからで。
 桔平は伊武の真剣な声音に。
「……ああ。」
 おっとりと快諾して。
「ちょっとあっち行ってろ。杏。」
 膝の上から、トラ猫を抱え下ろす。

「……杏?」

 眉を上げ、小さく伊武が呟いた。
 桔平は一瞬だけ固まって。
 それから、自分のとんでもない呼び間違えに気付いたらしく、決まり悪そうに頬を掻く。
「今の話、絶対、杏には言うなよ。」

 初夏の風が吹く。
「……なんだ。杏ちゃんなのか。」
 石田が気合い抜けたように笑う。桜井が肩をすくめて頷いたのは。
 別に「べべ様」の中の人が「杏ちゃん」であったコトが分かったからではなくて。
「杏ちゃんだったら仕方ねぇよな。」
 桔平の隣に杏がいるのは、すごく当たり前のコトで。
 「べべ様」が杏ちゃんの位置にいるのなら、何一つ苛立つコトはないわけで。
 ヤキモチなんか妬いていたのが、急にばかばかしくなってきて。
「まぁな。杏ちゃんだったら仕方ねぇよな。」
 内村の言葉をそのまま繰り返して、神尾は「べべ様」に目をやった。
 初夏の木陰で、小さなトラ猫はのんびりとあくびをしていた。







☆☆15万ヒット記念☆ぷち企画☆☆
   <今回のいただき冒頭文>
べべ様!!

どうもありがとうございました!




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