マイペースで行こう!
〜橘@ルド篇。

<冒頭文企画連動SS>



 他人の爪を切るのは、けっこう楽しい。
 橘は思った。
 爪を切る行為自体、けっこう楽しい。
 「パチン!」と軽やかなあの音。指先に伝わるあの感覚。
 だが、誰の爪であれ、いつでも切れるものではない。
 少し伸びてからでないと切れない。
 しかも他人の爪ともなると、もう一つ障害がある。
 あまり伸びてしまうと、本人が切ってしまうのだ。
 それではいけない。
 ある程度伸びていながら、自分で切ろうと思い立つ前。
 その絶妙なタイミングを見計らって、捕獲し、切る。
 要するに、これは一種のハンティングである。
 観察眼。駆け引き。打算。そして決断力。
 全てを駆使して後輩の爪を切る。
 こんな楽しくもスリルに満ちたゲームは他にない

 そこまで考えて、橘は空を見上げた。土砂降りの雨がプラットホームの屋根からしたたり落ちる。屋根の間から見える空は、真っ黒な雲に覆われていた。
 そこへ。
「おや。橘くんじゃありませんか。」
 鼻に抜けるような笑い声とともに、聞き覚えのある声がして。振り返った橘に。
「よぉ。」
 色黒の男が笑いかける。気が付けば周囲には数名の中学生の姿があり。
「久し振り……というほどでもないか。」
 ルドルフのテニス部部員たちが親しげに微笑んで立っていた。赤澤、観月、木更津、不二、金田の五人。都大会以来の再会、であろうか。
「橘くんはどちらへ?」
 観月が尋ねて。橘が挙げたスポーツ用品店の名に、小首をかしげてみせた。
「なるほど。ボクたちもそこに行くつもりなんですよ。せっかくです。ご一緒しましょう。」
 同じ場所に行くことは全く不思議でも何でもない。規模の大きいスポーツ用品店と言ったら、いかに都内であってもそうそうたくさんあるわけではない。中学生相手の商売もやっている店となればなおさらで。
「そうか。」
 雨の日であれば、グラウンドを使うコトもできないし。こんな日は、新作の下見も兼ねて、ラケットや靴を冷やかしに行くのも良いだろう。そう考えたのは橘一人ではなかったようで。
「こんな天気じゃ外で打てないからね。くすくす。」
 そう言って木更津は空を見上げた。
 巨大ターミナル駅のホームには人の出入りが激しい。

 そのとき、橘は気付いた。観月と赤澤が自分を凝視しているコトに。
「……?」
 二人とも、何かがおかしい、どこか納得いかない、という表情で橘を見据え。
 そして。
 何かに気付いたようにぱっと笑顔になった。
「裕太くん!」
「金田!」
 二歩下がったところに控えるように立っていた後輩を呼びつける。
「はい!観月さん!」
「はい!赤澤部長!」
 後輩たちは律儀に返事をしながら、先輩の手招きに応じて。
「裕太くん。君はそこに立ちなさい。」
「金田はそこな。」
 先輩は後輩の立ち位置を指定して。
「はい!」
「こうですか?」
 素直に従う後輩たちに、観月と赤澤は満足げに頷いた。

 そんなわけで。
 橘は、不二と金田に挟まれるように立って。
「やっぱ、橘は中二を侍らせてねぇとな!」
「ですね。橘くんもこれで落ち着いたでしょう?んふ。」
 よく分からない事情で、他校の後輩を従える羽目に陥ってしまった。
 別に……中二を侍らせていないと落ち着かないとか、そういうコトはないんだが。
 橘はそう言いかけて口をつぐむ。これは彼らなりの優しさなのだ。……たぶん。

「お客様にご案内申し上げます。」
 がさがさと強い雑音混じりの構内放送が流れはじめた。一同は黙って耳を澄ます。
「大雨の影響でダイヤが乱れております。電車は10分ほど遅れて運行いたしております。お急ぎのところご迷惑をおかけして誠に申し訳ございません。あと10分少々お待ち下さい。」
 ホームのあちこちで時計を見たり、溜息をついたりする人の姿。
 しかしこれだけの土砂降りともなれば、多少のダイヤの乱れは仕方ないかもしれない。
 そう思わせるほどの豪雨が、彼らの頭上を襲っていた。

 そして。
 そのとき、橘は気付いてしまう。
「赤澤……お前、爪、伸びているな。」
 たとえ他校の部長であったとしても、その爪を見逃すことは、爪切りの鬼と後輩に慕われる彼の矜持が許さなかった。
「あ。ああ。ちょっとな。」
 橘の唐突な指摘に少し驚いたように、自らの爪に目をやる赤澤。
「スポーツマンとしての自覚が足りませんよ。爪くらいきちんと切ってください。」
 眉を上げて小言を言い始める観月。
 はきはきと滑舌良くぼやく深司ってこんな感じだろうか?
 橘は微妙な想像を胸に秘めて、観月を眺め。
「土曜に切るつもりだったんだ。平日は家帰ると夜になってるからな。」
 言い訳めいた口調で一応の反論を試みる赤澤。
「夜に爪を切ってはならないとかいう迷信を守っているんですか。んふ。非科学的ですね。」
 鼻で嗤う観月に、赤澤がむっとした様子で言い返す。
「迷信にだってそれなりの理由があるはずだろ!」
 ぱちん。
 不二と金田が困ったように視線を交わす。
「迷信が非科学的だと言っているわけじゃないんです。ボクは、赤澤のくせに迷信を信じるという事実が非科学的でありえないと言っているのです。」
 ぱちん。
 木更津がくすくすと笑い出す。
「んだと?……って、橘!てめぇ、何してやがる!!」
「何してって……見ての通り、お前の爪を切っている。」
 突っ込まれたコトにびっくりしたように、真顔で赤澤の爪を切っていた橘が目を上げる。
 駅のホームで。
 中三の男子が、他の中三を捕まえて。
 ぱちん、ぱちん、と。
 爪を切っているというその現実。

「あー。お前、なんで爪切りなんか持ってんだよ。」
「爪を切るため、だ。」
 淡々と真面目に応対する橘。
 赤澤は、空いている方の手で、かりかりと頬を掻いた。
「人の爪切るの好きなの?そんな風によく切ってるの?くすくす。」
 手元を覗き込んで、木更津が笑う。
「ああ。テニス部の後輩たちの爪とかな。」
 当たり前だ、とでも言わんばかりに橘は応じて。
「……以前、部室で俺が爪を切っていたとき、石田が……不動峰の後輩だが……自分も爪が伸びていると言いだしてな。今切るかと聞いたら、切るといって手を出してきたから、切ってやったんだ。そうしたら他の連中も切ると言いだして……それ以来、後輩たちの爪は俺が切っている。」
 どこか誇らしげに、そう説明した。

 観月は思った。
 たぶん、石田くんが手を出したのは、爪切りを借りるためであって。
 その手を掴まれて、いきなり爪を切られてしまったら、けっこう面食らったんじゃないだろうか、と。
 赤澤は思った。
 こいつ……たぶん、爪切りフェチだな!と。
 金田も考えた。
 もし赤澤部長が裕太の爪を切ってやってたら、俺も羨ましいとか思うかもしれないし、と。
 そして不二は祈った。
 観月さんが爪切りに目覚めませんように、兄貴も目覚めませんように、と。
 そんな仲間たちの姿を見て、木更津はまたくすくすと笑った。
 柳沢もいれば良かったのにな〜、残念、と。

「けっこう楽しいぞ。」
 ぱちん。
 最後の爪をきっちり切って、橘は満足げに一同に向き直った。
「楽しい、のか?」
 切られた爪をためつすがめつ眺めながら、赤澤が尋ねると。
「やってみるか?」
 手の中で爪切りを軽く弄んでいた橘が、赤澤の手のひらに投げ入れるように爪切りを渡す。そして。
「金田、だったか。」
 先輩の言いつけ通り、寄り添うように立っていた金田の手を、橘がぐっと掴み。
「この程度の爪の長さがあれば、十分楽しめる。」
 親切なアドバイスでもするように、金田の腕を赤澤に突きつけた。

「……いっちょ、やってみるか。」
 金田の手首を掴んで、やる気を見せた赤澤に、金田が動揺する。
「あ、あの。」
「びびらなくても良いっての。指ごと切ったりしねぇから。」
 上機嫌に爪切りをかちかち鳴らす赤澤。
 「指ごと」という響きに、金田はぎゅっと全身を強ばらせた。小さく俯いて。
 そして、目に涙を浮かべて。
「……バカ澤コノヤロウ!相手は爪切りなんだぞ!コノヤロウ!爪切りで指が切れてたまるか!コノヤロウ!」
 一生懸命、突っ込んだ。

「……分かった。分かったから。そんな叫ぶな。もう少し普通に突っ込めっての。聞いてんだから。」
 苦笑する赤澤を観月が小突く。
「金田くんが悪いんじゃありません。赤澤がいつも話を聞かないからいけないんですよ。」
「あー。別に聞いてねぇわけじゃないだろ。」
 そう言いながら、ゆっくりと標準を定めて。
 ぱちり。
 少し遠慮がちに、金田の爪を切って。
「痛かったら言えよ?」
「痛かったら、それってもう手遅れだろ?くすくす。」
 木更津のツッコミも軽く流して。
 ぱちり。
 屋根を撲つ土砂降りの声に混じって、軽快な爪切りの音が響く。

「実はボクも爪切りは好きなんですよ。」
 腕を組んで赤澤の爪切りぶりを眺めていた橘に、観月が声を掛ける。
「そうか。」
 にこりと微笑む観月。
「ええ。無抵抗な爪を完膚無きまでに切り落とす快感がたまりませんね。切り落とす寸前に指先に伝わる勝利の予感。自らを危地にさらさずに、逃げ場のない相手を徹底的に追いつめる。全てボクのシナリオ通りに動くわけですから。んふ。」
「……そうか。」
 橘は思った。
 たとえ、同じ行為をしていたとしても。
 同じ行為を愛していたとしても。
 表現が違うと、すごい違う感じがするなぁ、と。
 不二も思った。
 観月さんって……そんなコト考えながら爪切ってたんだ。
 すごいなぁ。何て言って良いのか、分からないけど、とにかくすごいなぁ、と。

「おっし。今度、左手な。」
 金田の右手を離し、赤澤は次の手にトライする。
 そこへ。
 観月の携帯が小さな音を立てて歌い出した。
「失礼。」
 ぱちり。
 軽く眉を上げて、観月は携帯の通話ボタンを押す。
「……。」
 そして、即座に切る。
「どうしたんですか?観月さん。」
 ぱちり。
「間違い電話ですよ。んふ。」
「携帯で間違い電話って珍しいですね。」
 ぱちり。
「いえ、電話番号を間違えていたのではないですよ。存在自体が間違っている人からの電話だったのです。」
「そんざいじたいがまちがって……?」
「いいんです。芥川くんのコトなど、裕太くんが気にするコトではありませんよ。んふ。」
「へ?芥川さん……?」
 ぱちり。
 観月と不二が不思議な会話を交わす最中。
 もう一度、観月の携帯が鳴る。
 ぱちり。
「おや、違う人からですね。……失礼。」
 小首をかしげて通話ボタンを押す観月。
「おっし!できあがり!」
 赤澤が充実感あふれる声で、爪切り終了を宣言した。
「きれいに切れたじゃないか。」
「だろ?マジでけっこう楽しいな!他人の爪切るのって。」
 赤澤の言葉に、橘は少し嬉しそうに頷いて、受け取った爪切りをポケットに押し込んだ。
 他人の爪を切るのは、けっこう楽しい。本当に楽しい。
 このスリルに満ちたゲームを共に楽しめる仲間がいたこと。
 橘は心からの喜びを覚えて、赤澤に握手を求めた。
 赤澤は、なんで握手を求められているのか分からないまま、とりあえずがっしりと握手を返す。
 そこには純粋でストイックな男たちの友情があった。たぶん、あった。

「はい。……宍戸くんですか。ええ。分かりますよ。ボクのデータを舐めないでください。……はい。ああ、木更津は六角出身ですから。……ええ。代わりましょうか?」
 そのとき。
 電車がホームに滑り込んできて。
 どうする?一本、待つか?
 一同は通話中の観月に目をやった。
 しかし観月は小さく微笑んで。

「失礼、今、移動中なんです。あとでこちらから掛け直しますよ。……ええ、五分ほどで。……分かりました。ではまた。」
 かちりと携帯を閉じて、滑り込んできた電車に目を向ける。
 土砂降りの雨の中を駆け抜けてきた電車は、ずぶ濡れで。

「行くか。」
「ええ。行きましょう。橘くん。」
 音もなく扉が閉まり。
 橘の両側には、先輩の言いつけ通り、金田と不二が控え。
 赤澤は自分専用の爪切りを買おうと心に決め。
 観月は芥川と宍戸の電話番号を携帯に登録し。
 木更津は、橘も赤澤も観月もやっぱり何かおかしいや、柳沢もいたらもっと楽しかったのにな、とくすくす笑い。
 真夏の蒸し暑い空の下。
 土砂降りの雨をくぐって、勢いよく電車は走り抜けてゆく。
   







☆☆15万ヒット記念☆ぷち企画☆☆
   <今回のいただき冒頭文>
他人の爪を切るのは、けっこう楽しい。

どうもありがとうございました!




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