「ふむ。どう考えても、常人の力ではこの警備網を突破するのは不可能だな。」
「とすれば、やっぱり犯人は怪盗キャッツアイ、ってことか。」
四月のぬるい風が若葉を揺らすのが、窓から見える。
博物館に特設展示会場では青学署の警官たちが、大勢、現場検証にあたっていた。
それもそのはず。この特設展示の目玉、ダイヤモンドを施した中世ヨーロッパの宝石細工「貴婦人の溜息」が、昨夜、跡形もなく消えてしまったのだ。
現場検証を重ねた乾と不二は、あらゆる方向から検討し尽くした挙げ句、そう結論付けざるを得なかった。
「キャッツアイなら、まぁ、仕方がないっすね。」
桃城が頬をかきながら、肩をすくめる。
怪盗キャッツアイ。
漫画にも出てきたような名前であるが、これはれっきとした実在の犯罪者の通称で。
予告も何もなく、ふと現れて、尋常ならざる手口で脈絡なくモノを盗んでゆく。
それは高価な宝石であったり、骨董価値の高い壺であったり、校庭の二宮金次郎であったり、八百屋の夏みかんの箱であったりした。
ただ、不思議なことに、キャッツアイは盗みが発覚するとすぐに、その盗品をもとの場所に戻すのである。レプリカを戻しているのだとか、あるいは盗品から精巧なレプリカを作っているのだとか、さまざまな憶測が流れたが、結局レプリカによる被害もなく、戻ってきた盗品は全てホンモノであり、警察も事実上、お手上げ状態であった。
その犯人は、猫のように輝くアーモンドの形の目をしているという。
そんな噂が噂を呼んで、誰が呼んだか、怪盗キャッツアイ。
「ねぇねぇ、また事件なの?」
「ん?英二か。今日は仕事中?」
大石刑事の親友、菊丸は、雑誌記者としてしばしば事件の取材に現れる。だが、今日はたまたま、通りがかっただけのようで。
人だかりがしているのを見て、生来の好奇心と、雑誌記者としての野次馬根性から、無理矢理、盗難事件の現場にまで入り込んできたらしい。
そんな幼なじみのやんちゃぶりに苦笑しながらも、大石がかいつまんで事情を説明してやると、菊丸は猫のように目を丸くした。
「ふぅん?『貴婦人の溜息』っていう宝石箱がなくなったわけ?大石にも分からないなんて、よっぽど難しい事件なんだね。」
「俺はともかく、不二や乾がお手上げなんだ。犯人はまたキャッツアイらしい。」
「まぁたあいつか。大石もやっかいな事件ばっかり回されて可哀想〜。」
「でも、実質的な被害がないからね。キャッツアイは悪いやつじゃないと思うよ。」
菊丸は柔らかく微笑んだ。
「大石って優しいよね。俺、大石のそういうトコ、好きだよ。」
不二が肩をすくめた。
乾は遠い目をしながら、ノートを開く。
桃城は、大人しくフリーズした。
「何が分からないの?」
「うん、ここにある赤外線装置を、犯人がどう避けて通ったのか、あっちにある熱に反応する防犯装置をどうやってかわしたのか、あそこの防犯扉をどうやって通過したのか、そこら辺が全然、分からなくてね。」
「あらら。大石〜、そんなの簡単だよ〜〜。」
そういいながら。
菊丸は防犯扉の横に立った。
「あのね。きっと、犯人は、こうやって飛び込んだんだよ。」
ひらり、と廊下から窓を伝い、通気口の金網を外して特設展示室に入る菊丸。
「ちょっと待て、英二。その通気口は子供でも通れない設計で……。」
「でも、関節を外せば余裕だよ?ほらね?」
「……あ。」
笑顔で、人間とは思えない動きをする菊丸。そして。
「うん。きっとね、優しい風の吹く、きれいな月夜だったんだよ。だから犯人は散歩をしていて。窓の外を通って、ここまで来て。」
窓に腰を下ろし。
「そうしたら、そこの硝子ケースにさ、素敵な箱が入っているのが見えるわけじゃない?見てるとさ、大事な友達の誕生日にそれをあげたいな、とか、思ったんだよ。」
くるくると、回りながら、踊りながら、無駄に跳ねながら、あちこち意味なく部屋を旋回し、しかし次第に硝子ケースに近づき。
「ダイアモンドが誕生石なんだよね。四月生まれはさ。だから、それをどうしてもあげたくて。喜ぶだろうな、って思ったら、自然に体が踊っちゃうんだよ。で、こんな感じで、硝子ケースに手が届く。」
きゅっと、のけぞるように腕を伸ばして、背後にある硝子ケースに腕を差し入れる。
その姿勢はイキモノとしてあからさまに不自然であったが。
確かに、赤外線の警報装置には体のどこも反応していなかった。
「でも、熱探知機は?」
「あれって、探知するまでに時間がかかるんじゃないの?その犯人だったら、きっと、二秒で盗って帰ってるよ。」
菊丸はまたひらりと窓辺に戻る。
そして。
笑顔で、言った。
「俺、少しは大石の役に立てそう?」
「うん、英二、ありがとう。」
どこか虚ろな調子で、礼を言いながら、大石は目を曇らせる。
もし、今の話が本当なら、菊丸英二がキャッツアイなのではないのか。
そう考えれば全て、つじつまが合う。というより、むしろ、こんなアヤシイ動きをするやつが、英二以外にこの世にいるとは思えない。思いたくもない。
恐ろしいことに自分は、誕生石がダイアモンドの、四月生まれであり、菊丸の自他共に認める大親友でもある。
「ねぇ、英二。……あのさ。気を悪くしないで欲しいんだけど……。」
大石は、言葉に迷いながら、口を開いた。
「あのさ。英二が、盗んだんじゃないよね?『貴婦人の溜息』。」
「違うよ。大石。そんなわけないじゃん。俺、今日ここに来るまで、その『貴婦人の溜息』っての、見たことも聞いたこともなかったもん。」
はっきりと自信を持って答える菊丸に、大石は安堵の溜息をついた。
長い付き合いだから、菊丸が嘘を付いているときは必ず分かる。
今、菊丸は嘘を言っていない。
「ごめんな、英二、疑って。」
「いいよ。大石の仕事、人を疑うことだもん。俺、分かってるし。」
「ホント、ごめんな。」
「うん。でもさ、大石、俺が世界中に嘘を付く日があっても、大石にだけは絶対絶対、本当のこと言うから。信じていてよね。」
「ああ、信じるよ。」
「なんたって、俺は大石の親友なんだから!」
「ああ、ごめん。そうだったね。英二は俺の親友だよ。」
その会話の横で、桃城と不二と乾は目配せをしあった。
「とりあえず、犯行の手口は判明した、と。」
「そうだね、乾。後はブツを取り返すだけだね。桃、大石を頼む。」
「うぃっす。」
四月の穏やかな風が吹き続けている。
外は優しい青空に、芽吹いたばかりの木々の若葉がまぶしくて。
「大石先輩、ちょっとあっちの計器が狂っちゃって、調整の仕方、分からないんですけど、手伝ってもらえます?」
桃城が当たり障りのない理由で、大石を特設展示会場から連れ出すと、不二が満面の笑みを浮かべて、菊丸のそばに現れた。
「英二、こないだのスクープ記事、読んだよ。面白かった。」
「あ、不二〜!久し振り!あの記事、俺の会心作なの。」
他愛のない世間話をしながら。
ふと、思いついたように、不二が切り出した。
菊丸の背後には、いつの間にか乾が立っている。
「あのさ、英二。もうすぐ、大石の誕生日だよね。プレゼント、用意した?」
「うん。そうなの。昨日、すごくきれいな箱を見付けたんだ。」
「へぇ。どこで?」
「きれいな満月でさ、嬉しくなって散歩してたらさ。目が合って一目惚れってやつ?」
「ふぅん。」
その瞬間、乾の眼鏡が光る。
「英二。僕ね、大石は今、箱なんかいらないと思うんだ。だって、ほら、今日の事件で、箱がなくなったばかりじゃない?大石は真面目だから、そういうの嫌がるよ。きっと。」
「そうかなぁ。」
「うん。買い直した方がいいよ。」
「う〜。怪盗キャッツアイのやつめ!大石を困らせるだけじゃなく、俺が運命感じたプレゼントまで邪魔しやがって〜。」
菊丸は全く、腹に据えかねる、という様子で、大いに憤慨した。
その姿をしばらく眺めていた乾は、ペンをしまい、ノートを閉じる。もう、これで事件は解決したのである。これ以上のことは記録する必要がない。
「でもさ、丁度良かったよ。僕、この前、大石が好きそうなモノを見付けたんだ。英二、今度一緒に買いに行かない?」
「え?うん。行く行く!」
「じゃあ、英二、その箱、僕にちょうだい。」
「……なんで?」
「大石の気に入りそうなモノ、教えてあげるから。どう?」
「……う〜〜。分かったよ。」
そうやって。
不二は「貴婦人の溜息」を回収することに成功した。
数時間後、「貴婦人の溜息」は、博物館の用具置き場から発見されることとなる。
誰が呼んだか、怪盗キャッツアイ。
本人には盗むつもりなど毛頭なく。
それを犯罪だと呼ぶには、あまりにも幼い怪盗キャッツアイ。
警察の、というよりは、不二と乾と桃城の苦悩は今日も続く。
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