隔靴掻痒。



 関東大会を終え、全国大会へとコマを進めた六角テニス部員達は、今日もまた楽しい練習に勤しみ、夕方を迎えていた。
「うん。今日も頑張った!」
 満足そうに何度も頷く葵。額に流れる汗もそのままに、部室で着替える先輩達を振り返った。そして、ふと制服のボタンを留める手を休め。
「そっか。」
 小さく呟く。

「ん?どうしたのね〜?」
 横でもぞもぞとシャツを脱いでいた樹が葵の異変に気付き、小首をかしげれば。
「……もうすぐ……みんなとはお別れなんだね。」
 葵らしからぬ小声での返答に、居合わせた一同がびっくりして振り返る。

「お別れって……どうせ高校行ったって近所は近所だろ?」
 と、黒羽。しかし、葵は納得せず。
「でも、このメンバーで出るテニスの団体戦は、全部勝ち進んだとしても、もう本当に数試合だけじゃないか!みんな、ボクを置いて、卒業しちゃうじゃないか!しかもダビデをボクに押しつけて!」
 葵の言葉に、三年生たちは困惑したように視線を見交わす。
 そして、天根は一人、「俺の立場って……??」と少しだけ哲学をしてみたが、「哲学している俺って結構かっこいい!」という幸せな結論に至り、極めて平和に満足した。

「剣太郎。……ついでに、ダビデ。」
 静かに佐伯が口を開く。
「そろそろ……二人にも本当のコトを話しておいた方が良い時が来たのかもしれない。ちょっと……びっくりするかもしれないけど、聞いて欲しい。」
 上半身は制服のYシャツ、下半身は練習用の短パンという微妙に奇妙なかっこうで、佐伯はゆっくりとベンチに腰を下ろして足を組んだ。葵と天根は、神妙な眼差しで、佐伯を見つめる。
 着替えの手を休め、木更津と首藤は彼らを見守り、黒羽は腕を組んで、樹は小首をかしげて、佐伯の言葉を待つ。

「実はね。六角のテニス部というのは、世を忍ぶ仮の姿なんだ。」
「え?!本当?!サエさん!!面白い!!」
「……!!!!」
 樹は困ったように黒羽を見やったが、黒羽は「ほっとけ」とばかりに樹に小さく下手なウィンクを送った。

「俺たちの本当の姿……それは……。」
 ごくり、と葵が唾を飲む。
 天根はさっきから瞬きもしない。

「…………。」
 佐伯は目を伏せてしばらく沈黙し、ゆっくりと顔を上げると。
「……おい、バネっ!お前、いい加減、突っ込め!」
 唐突に逆ギレした。

 しかし、黒羽はにやりと笑って。
「なんだ?『剣太郎たちにはまだ早い』ってか?もう二人とも中学生だ。そろそろ俺たちの真実を教えてやっても良いころなんじゃねぇのか?」
 しれっとして佐伯を煽る。
 小さく吹きだしたのを誤魔化すように、首藤はこそこそと着替えを再開し、佐伯はむっとした様子で黒羽を睨んでいたが。
「そうか。過保護なバネまでそう言うんだったら、仕方ないな。やっぱりきちんと伝えておこう。」
 覚悟を決めた様子で、二人の後輩を順番に見据え。
「六角テニス部の本当の姿……それは……ひおしがり部だ!」
 思いっきり台詞を噛んだ。

「ひおしがり部?!ひおしがりって何?!なんか、面白い!!」
 葵が目を輝かせる。
「……!!」
 天根も声もなく期待に満ちた眼差しで佐伯を見つめる。

 黒羽はさっそく佐伯を煽ったことを後悔し始めていた。佐伯はといえば、黒羽が後悔し始めたことに気付いて、ちょっとだけ勝利の予感を味わい始めていた。

「剣太郎ってば、中学生にもなってひおしがりを知らないの?くすくす。」
 木更津が佐伯の援護射撃をする。
「うん!知らない!ひおしがりって何?!」
 きらきらと目を輝かせ、知らないことへの後ろめたさの欠片も感じさせず、葵は三年生を順繰りに見回して尋ねた。
「くすくす。ひおしがりってのはね、剣太郎たちの言う潮干狩りと同じ意味だよ。まぁ、剣太郎たち素人レベルだと、まだまだ潮干狩りだね。でも、俺たちクラスになれば、あれはひおしがり。子供の遊びじゃない。大人の勝負、スリル満点のスポーツなんだ。」
 木更津の言葉に何度も頷きながら、佐伯は爽やかな笑顔を浮かべた。
「そういうこと。覚えておけよ。剣太郎。ダビデ。お前たちは六角ひおしがり部の未来を担う若き戦力なんだからな。」

 黒羽は指先をわななかせて、何かの衝動と戦っていた。
 天根と葵は、心から感動した様子で、佐伯を、そして木更津を見る。

「ねぇ、サエさん!六角ひおしがり部は強いの?!」
「そりゃ、強いさ。王者と言えば、立海のことじゃない。我らが六角を指すくらいだからね。全国大会の常連。常勝といえば千葉。無敗の王者といえば六角。いや、ひおしがりといえば六角と言い切っても良いくらいだ。」
「すごい!!面白い!!」

 葵の反応に満足したらしく、佐伯は爽やかな笑みで立ち上がり、着替えを再開する。
 天根は目をぱちくりさせて、先輩一人一人の顔を見回した。

「じゃあ、サエさん!青学は?!」
「青学ひおしがり部か。大石の砂浜全体を把握する視野の広さも全国区だけど、やっぱりエースの河村だね。天性のセンスと、寿司屋の跡取り息子として磨き上げられた直感力がある。あとは二年生の海堂。彼も侮れない。」
「河村……さん……!!」
「海堂さんも強いのか!!」
 天根と葵は、それぞれに自分の対戦したことのある青学選手を思い出し、深い感銘を受けた。

「氷帝も強いの?!」
「そりゃ、強いよ。氷帝の忍足と樺地。忍足の執念と樺地の堅実さ。団体戦で対戦する氷帝の強さは半端じゃない。ただ、跡部はダメだね。あいつはフナムシに弱い。」
「山吹は?!」
「山吹……あいつらの本領はシジミ採りだ。特に南と東方。あの二人にシジミを採らせたら、俺たちでも苦戦する。」
「……地味’sの地味なシジミ採り……!!」

 ごん!!
 八つ当たりにも似た響きを立てて、黒羽のかかと落としが天根の額に炸裂した。
「……痛い……。」
 額を抑え、涙目になって訴える天根の頭を、遠い目をした黒羽の大きな手がぼふっと撫で、何かを諦めたように着替えを再開した。

「なら、ルドルフは?!」
「ルドルフは観月の戦略が当たると、結構手強い。満潮干潮を見据えた駆け引きなんかじゃ、全国で通用する実力の持ち主なんじゃないかな。それに、淳もいるしね。」
「不動峰は?!」
「うーん。去年は知らないな。ただ、部長の橘、九州二強の名は伊達じゃない。『そういうアサリを掘り出していくのがひおしがりなんだよ。獅子楽は。』という彼の啖呵は、去年のひおしがり界の流行語大賞にノミネートされたほどだからね。今年の不動峰は怖い。ね、バネ?」

 唐突に話を振られて、黒羽はYシャツを掴んだまま一瞬フリーズし、それから。
「あー?ひおしがりで再戦したら負けんじゃねぇぞ?王者の意地にかけてな?」
 にやりと挑発して、佐伯を再び爽やかに憮然とさせた。
「分かってる。もう負けないさ。」

「立海は?!海のそばだし、立海も強いんじゃない?!」
「立海、ね。」
 佐伯は軽く髪を掻き上げて、笑った。
「確かに強い。だけど、王者六角の敵じゃないね。だいたい、あいつら、なんでかワカメとかクラゲとか、くねくねしたものばっかり集めるんだ。確かにそういうひおしがりもありだけど、俺は感心しないね。」

 佐伯の堂々たる他校評価に、天根と葵は心から感心した様子で、ふぅっと深い息をついた。
「やっぱり六角は強いんだ……!面白い!!ボクも頑張ろうっと!!」
 そして、ばたばたと着替えを終え、鞄を担ぎ上げ。
「じゃあ、帰りにみんなで海寄って行こうよ!!」
 先に着替えを終えていた首藤と樹を追いかけて部室を飛び出し、上機嫌に笑った。

「首藤、剣太郎にひおしがりの奥深さを教えてあげるのね〜。」
「オッケイ。樹ちゃん。」

 寂しくなる予感なんていらないから。
 どうせだったら、最後の最後まで、飛びきり楽しい気分でいたいから。
 これくらい、えんま様は許してくれるんじゃないかな。

 大はしゃぎで海への道を走り出す葵を見送って、佐伯は小さく吹きだした。
「六角ひおしがり部、今年も全国制覇できるかな。」
「うちは無敗の王者なんだろ?くすくす。」
 笑いながら木更津は、部室の灯りを消し。
 ようやく帰り支度を終えて歩き出した天根の頭を、ぼふぼふと撫でながら、黒羽も。
「ま、今年も頑張ろうぜ?」
 と笑った。

 天根は。
 どうして、どの学校でもテニス部の人たちがひおしがり部と掛け持ちなんだろう……と悩み。
 そして。
 ひおしがりのシーズンは春なのに、今から何をやるつもりなんだろう……と悩み。
 それから。
 「悩んでいる俺ってとってもかっこいい!」と悟って、極めて幸せな気分になったのであった。







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