欣喜雀躍。



 部活が始まるまでには、まだ10分近く時間があった。日陰でラケットをいじったり、靴ひもを結び直したりしながら、ぼんやり過ごす何でもない10分間。まだ伴田先生は姿を見せず、南はうーんと大きく伸びをした。
「良いお天気でラッキー。」
 誰に言うともなく千石が呟いて、南の隣で同じように伸びをする。
 そこへ。
「間に合ったです!!」
 壇が飛び込んできて。
「まだ余裕余裕〜!」
「良かったです!!だーん!」
 亜久津に代わって、というわけでもないのだが、入れ替わるように入部した壇は、熱心さでは誰にも負けない。
「亜久津先輩の分まで、頑張るです!」
 そんな気負いが、先輩たちにとっては眩しくもあり。
「亜久津は亜久津。太一は太一だろ?」
 東方が、ぽふっと壇の頭に手を載せる。
「でも!亜久津先輩が抜けたコトで、空いた穴をボクが少しでも……!」
「亜久津が抜けても、穴なんか空かねぇよ。太一。」
 そう言って笑ったのは南。
「そうそう!要するにね、亜久津が抜けたのは、俺らにとってはカツラが外れたようなモノだったんだ。カツラってあったら便利かもだけど、なくても、人間、穴は空かないだろ?」
 腰をかがめて、壇の視線の高さで語りかけるのは千石。その台詞はちょっと違うんじゃないかな、と南は思わないでもなかったが、気持ちだけは何となく分かったので、放置することにした。東方は、なぜかその比喩が気に入ったらしく、何度も頷いている。

 ゆっくりと雲が流れていく。
「分かったです。でも、ボクも頑張るです!」
 無駄に前向きなやる気を見せて、壇はぐっと拳を握った。そして唐突に。
「あの!質問です!」
 と南ににじり寄る。
「山吹には試合前に気合い入れる決めぜりふとか、ないですか?!」
「決めぜりふ?」
 何を言われたのか理解しかねて、南は千石と東方を振り返る。しかし、二人も軽く首をかしげるばかりで。
「不動峰には『行こうぜ!全国!』っていう台詞があるです!だーん!」
 ポケットから取り出した小さなメモ帳を開き、壇は真剣な目で訴える。
「そういうのがほしいのか?」
 困惑気味に東方が問えば、かくかくと何度も深く頷いて。
「欲しいです!」
 大きな目を更に大きく見開き、気合いたっぷりに言い切った。

「じゃあ、いいじゃん。山吹も『行こうぜ!全国!』で。」
「そうだな。俺らも全国行くつもりだしな。」
 ならば、と応じる千石と南に。
「マネっこはいけないです!」
 壇はふるふると首を振った。

「ちなみに、青学は『油断せずに行こう!』です!」
「じゃあ、いいじゃん。山吹も『油断せずに行こう!』で。」
「そうだな。俺らも油断しちゃいけないしな。」
「マネっこはいけないです!」

「ちなみに、氷帝は『俺様の美技に酔いな!』です!」
「じゃあ、いいじゃん。山吹も『俺様の美技に酔いな!』で。」
「そうだな。俺らも美技くらい出せるしな。」
「マネっこはいけないです!」

 壇、千石、南の会話を聞きながら、東方は心密かに、青学と氷帝のは単に部長の口癖なんじゃないのかなぁと思い。
 室町は、試合前に全員で「俺様の美技に酔いな!」と叫んで気合いを入れる氷帝レギュラー陣を想像して、ちょっとだけときめいた。

 温かい風が吹く。もう夏がそこまで来ている。
「決めぜりふくらい、自分たちで考えましょう。例えば……。」
 室町が感情を読ませない声で、話し出す。
「例えば?!」
 期待を隠しきれない様子で、壇が目を輝かせた。
「そう……例えば……『俺様の行こうぜ!行こう!』とか。」
「……?」
 室町の言葉に、壇は首をかしげる。
「そうじゃなければ、『油断せずに全国に酔いな!』とか。『行こうぜ!美技に行こう!』とか。」
「……マネっこはいけないです……。」
 しょんぼりする壇の頭にぽふっと手を置いて、南は、マネっこ以前に意味が分からないトコが問題なんじゃないかなぁと思ったが、後輩に酷いことを言うのも気が引けたので、黙っているコトにした。

 そのとき、新渡米とともに、コートの隅のオオバコを一心不乱に三つ編みにしていた喜多が振り返った。
「……冷やし中華、始めました……?」

 喜多が何を言い出したのか分かりかねて、東方は南を振り返り、壇は千石を振り返り。
 千石がにぱ!と笑ったのに気付いて、南は。
「もしかして、喜多、それって決めぜりふを考えてくれたのか?」
 と尋ねてみる。喜多はこくりと頷き、またオオバコの方に視線を戻した。

 たとえば。
 試合開始前に、円陣を組んで。
「冷やし中華、始めました!」
 と全員で声を合わせて気合いを入れる山吹。
 それは……ある意味、相手校にすごいプレッシャーを与えるだろうな。
 千石はその状況をリアルに想像し、いたくご機嫌になった。

「喜多……冷やし中華じゃないのだ。夏はかき氷なのだ。」
 オオバコから目を離さずに、新渡米が喜多を諭す。
「でも、『かき氷、始めました!』じゃダメなのだ。テニスは夏だけじゃないのだ。どうせなら、『年中無休!』とか『全品大幅値下げ!』とかの方が、魅力的なのだ。」
「なるほどであります!」
 喜多は、相づちを打ちながら、新渡米の作るオオバコの冠に目を奪われている。

 新渡米にとって、試合前の決めぜりふは、商店の軒先の看板みたいなモノなんだろうか??と、南は少しだけ真剣に分析を試み、3秒で断念した。
 室町は、「年中無休!」「全品大幅値下げ!」とお互いに声を掛け合う仲良し山吹を想像し、この団結力には不動峰も敵うまい、と少しだけ気をよくした。

 新渡米と喜多の世界が、普通の人たちと違うのはいつものこととしても、東方はいい加減、ぽかんと口を開けたまま固まっている壇が可哀想になってきた。
「まぁ、そうだな。気合い入れるんだったら……」
 ちょっと鼻の頭を掻いて考えて。
「たとえばさ、『えいえいおー!』とかいうのでも良いわけだろ?」

 千石は、「さすがは東方!ってかさすがは地味’sだよね!」と嬉しくなり。
 南は、絶対、千石に「さすがは地味’sだよね!」とか思われているだろうなぁ、と予想して、小さく溜息をついた。

「千石。お前も考えろ。何か。」
 なぜか、東方発案の「えいえいおー!」を丁寧にメモしている壇を見かねて、南が千石の額を小突く。
「クレバー千石にお任せ!」
 奇妙なしなを作りながら、千石は頬に手をあてて一瞬目を閉じたが。
 人差し指で、南をぐっと指し。

「亜久津の隙間、お埋めします。どーん!」

 なんだかよく分からない結論に至った。
「亜久津の隙間って何だよ!」
「亜久津がいなくなって、俺たちの心にぽっかりと空いた隙間だよ。心の隙間!」

 室町は、試合開始前に、相手選手を「亜久津の隙間、お埋めします。どーん!」と挑発する南を想像し、それは地味に意味不明でかっこよすぎるなぁ、と部長に惚れそうになって少しだけ焦った。
 東方は、そうかぁ、最近、何だか物忘れが激しいと思ったら、心の隙間ができたからなのかぁ、と想像力豊かに何かを納得した。

 壇は千石の台詞もしっかりメモして、それから南の袖を引っ張った。
「南部長〜……もっと気合い入りそうな言葉が欲しいです〜。」
 眉を寄せて、一生懸命考えているらしい壇に、南は少し困惑しながら、それでも部長として何か言わなくてはいけない、と頭を絞ったが、特に良い言葉は思いつかなかった。
 でも。
 本当はそんな決めぜりふなどなくても、山吹は山吹のやり方があるわけで。
 テニスは楽しい。試合でも練習でも。
 伴田先生はいつだってそう教えてくれる。
 だから。
 不動峰や氷帝や青学みたいなコトをしなくても、山吹は山吹流で良いんじゃないのか。
 南はふっと肩の力を抜いた。

「太一……その、お前……テニスは楽しいか?」
「は、はい!楽しいです!」
「じゃあ……掛け声とか……良いんじゃないのか?」
「は、はいです!」
 南の視界の片隅で、錦織が喜多からオオバコの冠を問答無用にかぶせられて、凍り付いていた。

 もちろん。
 南は知らない。
 掛け声とか決めぜりふなんか、いらないんじゃないか?という南の地味な主張は全く理解されず、次の大会で試合中、山吹の良い子たちに「テニスは楽しいか?」「はい!」という素敵な掛け声を連呼され、「発案者」の南はそのたびに悶絶させられる運命にあるのだ、などと言うことは。

 夏の気配の空を、ゆっくりと雲が横切ってゆく。







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