以心伝心。
部活を開始すべき時刻が来て、大石は無意識のうちに手塚の姿を探している自分に気付いた。
いない。手塚はここにはいない。
頭では分かりきっているコトなのに、体はまだそれが理解できないのだ。
「大石〜!時間だよん!」
菊丸が背中から飛びついて来る。
「柔軟、一緒にやろ?」
「ああ。」
努めていつも通りに、大石は部活の開始を宣言した。遠慮のかけらもなく問答無用に、菊丸が大石の背中を押す。体が柔らかい菊丸には何というコトもない運動なのだろうけども。
「あのさ〜。」
背中を押しながら、話しかける菊丸。
「ん?」
聞いていると伝える程度の相づちが、今の大石には精一杯で。
「俺ね、考えたんだけどさ。結構、大きいじゃない?……手塚がいないのって。」
思いっきり体重を掛けていた菊丸が、大石の背から手を離す。
「……ああ。」
確かに手塚の抜けた穴は大きい。どうしようもなく大きい。自分では十分にその穴の大きさを分かっていたはずなのに、言葉として人から告げられると、それなりに衝撃はあるもので。大石は曖昧な相づちしか打つことができなかった。
「そんでね、まぁ、選手としての手塚の穴は、みんなで埋めるしかないとは思うんだ。部長としての手塚の穴は、大石が部長代理として埋めてくれるっしょ?」
「……そのつもり、だけど。」
「でもさ、『手塚』の代理じゃないじゃん?大石は。」
「……そうだな。」
英二の言っているコトは、いまいち要領を得ないが、意味はなんとなく理解できた。手塚の存在感、影響力、貫禄……それは余人には埋めがたい。そういうコトだろう。
と、大石は思った。そして深く頷いた。しかし、菊丸の思惑は、大石とは多少方向がずれていたようで。
「だからさ、俺は決めたわけ。俺は手塚代理になる!」
「……手塚代理?!」
「そう!大石が部長代理、俺が手塚代理。二人合わせて手塚部長代理ね!」
菊丸は天下の正論を吐いているかのように、自信満々にそう言い放つと、勢いよく屈伸運動を始めた。
それから。
菊丸の「手塚代理」業務が始まった。
「俺、真面目に考えたから、任せて!」
と、胸を張るわけだが。菊丸によれば、「手塚代理」の仕事は。
「油断せずに行こう」「どうだ?」「うむ」の三つしかないのだと言う。たとえばこんな調子である。
試合形式の練習の前。
どこか不安げにおどおどとコートを見回していた河村を捕まえて。
「タカさん……じゃなかった、河村!」
「えっと……何?手塚?」
いつものようにじゃれつくわけでもなく、手塚代理☆菊丸が声を掛ける。
付き合いよく、手塚代理に応じる河村に。
「油断せずに行こう!」
手塚代理は精一杯眉間にしわを寄せて、渋く言いはなった。
「ああ。そうだね!ありがとう、手塚!」
河村はにっこり微笑むと、手塚代理の頭を軽くぽふっと撫でて、コートに入る。
「タカさん、ラケット忘れてる!ラケット!」
「あ。あはは。ありがとう。英二!」隣のコートで不二がくすくすと笑った。
「タカさんってば優しいな。」
靴ひもを結び直していた乾が応じる。
「しかし、タカさんは手塚の頭など撫でないだろう?」そして手塚代理☆菊丸はぱたぱたと走り出す。
「桃〜!……桃城!」
「はい?!何すか。手塚部長!」
今度のターゲットは桃城。もちろん、付き合いの良い桃城は、手塚代理に普通に応じてくれる。
「……どうだ?」
「そっすね……結構良い感じっす。サーブのときの足の踏み込みとか、悪い癖が抜けてきたって竜崎先生にさっき褒めてもらって。」
「うむ。」
「後はダンクのコントロールとかですけど。何か、分かってきたかなってトコがあって。」
「うむ。油断せずに行こう!」
「はい!」桃城に偉そうに話しかける菊丸を見守りながら。
「英二も手塚も……自分のペースでしかコミュニケーションを図らないって意味では、実は結構似たもの同士なのかもね。」
不二がおっとりと笑う。
「菊丸はアクロバティックに相手の間合いに飛び込んで、手塚は手塚ゾーンよろしく、相手を自分の間合いに引きずり出す、と。そういうわけか。確かに相手のペースはお構いなしだな。二人とも。」
ノートを開いて、乾は何かをメモしている。
今にも降り出しそうな空。だが、部活は順調に進む。「海堂〜〜!!」
「……な!」
いきなり飛びついてきた菊丸に、海堂はよろめいて。
しかし、菊丸の眉間に懸命なしわが刻まれているのに気付き、はっとする。
「あの。何すか?」
海堂も気付いている。この菊丸は「手塚代理☆菊丸」であることに。
「ごっこ遊び」など苦手な海堂にとって、手塚代理☆菊丸はできればそばに来て欲しくない存在であった。
「どうだ?」
「……どうだって……その。」
「どうだ?」
「……順調っす。」
「どうだ?」
「……その……足腰の強化を……もう少し頑張ろうかと……。」
「うむ。油断せずに行こう!」海堂がしどろもどろに手塚代理☆菊丸に対応しているとき。
「英二の突撃精神を身につけた手塚って最強かもしれないね。」
不二がくすくすと声を上げて笑い出し。
「海堂から強引にあれだけの情報を引き出すとは、なかなか……。」
なぜか少しだけ敗北感をにじませながら、乾はまたノートに何かをメモした。
湿った風が吹く。菊丸は練習の合間を縫って、一生懸命に手塚代理の役割を果たしていた。
「おちび〜!!」
「……!」
なるべく菊丸の視界に入らないように、と上手いこと立ち回っていた越前に、ついに手塚代理の魔の手が伸びる。
「越前!」
「う、うぃっす。」
後ずさりながらも、一応手塚代理に応える越前。
「どうだ?」
「そ、そっちこそ、どうなんすか。」
「……どうだ?」
「どうって……菊丸先輩が邪魔で練習に身が入らないっす。」
「……うむ。油断せずに行こう!」
「……うぃっす。」菊丸が側を離れると、越前は大きく息をついてしゃがみこんだ。
「越前は敵わないながらも、まぁ善戦したな。」
口元に薄い笑みを浮かべながら、乾が眼鏡をずり上げる。
「さすが、と言うべきだね。彼も絶対自分の間合いを崩さないからね。」
それでも不二の視線の先にいる手塚代理☆菊丸は、眉間にしわを寄せながら、上機嫌にスキップをして、あちこちを走り回っている。「大石!どうだ?」
次のターゲットは大石。「さてさて。大石はどう出るか?」
興味深そうに、乾がシャーペンをくるりと回しながら呟けば。
「英二を御させても、手塚の相手をさせても天下一品の大石だからね。どうなるかな。」
不二もまた楽しそうに細い目をさらに細めた。大石はファイルを覗き込んでいた。練習の予定や、必要な個人データなどが挟み込まれているファイルは、副部長である大石のモノで。現在、部長代理としての仕事と平行して続けている本来の務め、副部長業務の必須アイテムであった。
それを見ながら、なにやら悩んでいた大石が、菊丸の声にちょっと驚いたように顔を上げて。
「ああ。手塚代理。」
手塚代理の顔を見て、にこりと微笑んだ。「中二のコトなんだけど、そろそろ秋の大会を視野に入れた方がいいと考えてたんだ。」
「うむ。」
「でも、練習内容は、全国大会に標準を合わせなくてはいけない。」
「うむ。」
「それで、どうしようかと思って。」
「うむ。」
「あ、それもそうだね。」
「う、うむ。」
「……そうか。さすがは手塚だな。そういう考え方もあるね。」
「う、うむ。」
「難しいなぁ。でも、その線で頑張ってみるよ。」
「……う、うむ。」
「ありがとう。手塚!」
「ゆ、油断せずに行こう!」にっこりと爽やかに微笑んで、大石はファイルに何かを書き込んでいる。たぶん、これからしばらくの練習方針とかが決まったのだろう。「あとで、竜崎先生に報告しに行こう」と独り言のように呟いて、大石は大きく頷いた。
不二は乾を振り返り。
乾は不二を振り返り。
お互い、しばらく見つめ合っていたが。「大石って……。」
「大石にとって、手塚とは……。」呻くように呟いて、目を見交わした。
「大石は手塚の思考回路を知り尽くしている。だから、相づちを聞いただけで、『手塚の言わんとするコト』をある程度汲み取れるわけだ。」
「だから、いつでも寡黙な手塚の言葉を的確に理解できる……のか。でも、今の手塚代理には、『言わんとするコト』なんてなかっただろう?」
「……だろうね。」
「なら、大石は今、何を汲み取ったんだ?」
「何だろうね。」
にこっと不二が笑う。
ざわざわと風が木を揺らして吹き抜け、雨の気配が空を覆う。
手塚の存在感のすごさがなせる業か。
大石の感受性のすごさがなせる業か。雨が降り出す前に、部活終了の予鈴が鳴った。
「お疲れ!手塚代理!」
「なかなかの仕事ぶりだったぞ。」
ファイルのメモを見返して、満足そうな大石の横で、やはり満足げに飛び跳ねている菊丸に、不二と乾は声を掛け。
「うむ!油断せずに行こう!」
眉間にはしわを寄せ、しかし満面の笑顔を浮かべて、手塚代理☆菊丸は元気いっぱい返事をした。
ブラウザの戻るでお戻り下さい。