「許さない!」
姫乃が叫んだ。
「許さないんだから!」
彼女の意志の強さは、みんな知っている。
彼女が普通の女の子で、それでいて、誰より強情で勇敢だと、みんな知っている。
だから。
「まぁ、ヒメノン、落ち着いて。」
明神ごときが宥めすかしたところで、意味がないことも、みんな知っている。
「ああ、そうだ!バナナがあった!バナナあげるから。」
「明神さんなんか、知らない!」
飛び出していった姫乃は。
「ヒメノン!」
ばたん!と大きな音を立てて、自分の部屋に立てこもってしまい。
共同リビングには、明神と陽魂たちが残された。
「……ヒメノンを慰めに行ってこよう。」
なりゆきを見守っていたガクが、嬉々として歩き出す。
「待っておいで。マイスイート。」
事情が分からないままに、アズミはきゃっきゃと笑っている。
「ねぇ!喧嘩?明神と姫乃、喧嘩?」
「そうだとも。そして、明神はヒメノンに嫌われたのさ。」
アズミを抱き上げて、ガクが姫乃の部屋へとすぅっと入り込む。
「何だよ。全く!」
明神は、ぼろぼろのソファに身を投げて、はぁ、と大げさなため息をついた。
「たかがプリンじゃねぇか。なぁ?エージ。」
同意を求められて、エージが苦笑する。
「姫乃のヤツ、後で明神と一緒に食べるんだ、ってうきうきしてたんだぜ。あれ。」
冷蔵庫の中にひっそりと入っていたプリン。
愛らしい包装紙に包まれていようとも、有名な洋菓子屋の袋に入っていようとも、明神冬悟の目から見れば、それはただのプリンに過ぎなくて。
二つあるから、一つくらい食べても構わないだろうと思っただけなのだ。
一つ食べてみたら、物足りなくて、二つめも食べてしまっただけなのだ。
たった、それだけのこと。
たった、それだけの……。
「うちの住人は、何でこう手が掛かるかなぁ。」
しまったなぁという表情も露わに、明神は乱暴に髪を掻きあげる。
「どこ行ったら買えるんだよ。あのプリン。」
「知るかよ。」
冷たく突き放すエージの横から。
「週に一度の限定販売なんだって。ネェちゃん言ってた。」
ぼそりとツキタケがトドメを刺す。
「プリンくらい毎日売れよ!」
「オイラに文句言われても。」
もちろん、ツキタケに八つ当たりしたところで、どうしようもないことくらい、明神だってよくよく分かっている。
「あーあ。」
窓の外はもうすっかり夜の色。
「謝ってくるか。」
プリンは確かに二人分あったのだ。
高校生のお小遣いなんて、たかが知れている。
それなのに。
「手が掛かるのは、管理人の方だろ。」
エージにからかわれて。
笑いながら手を振るツキタケに見送られて。
明神は、姫乃の部屋の扉を恐る恐る開く。
「ばかばかしくてやってらんねぇよな。」
明神のまねをするように、ソファに身を投げてエージはツキタケを振り返る。
「本当に。」
ツキタケは床にあぐらを組んで座った。
姫乃の部屋からは、いつの間にか、アズミの機嫌の良い笑い声が聞こえてくる。
「アイツら、許さねぇんだからな。」
エージの声に、ツキタケがきょとんとする。
「俺たち、あんだけ苦労して戦って、やっと勝ったんじゃねぇか。」
「うん。」
「それなのにさ。」
姫乃の笑い声まで、いつの間にか聞こえてきて。
「それなのに、これで不幸になんかなったら、許せねぇって言ってんだ。」
ま、アイツらは心配ねえだろうけどな、とエージは笑って伸びをする。
こんなどうでもいいことで喧嘩できる幸せ。
小さい幸せのありがたみを、姫乃も明神も、きっと誰よりよく知っている。
「オイラたちもね。」
「ん?」
「オイラたちも。」
「何だよ。」
「……何でもない。」
陽魂は幸せになって満たされたら、消滅してしまうのかもしれない。
ばらばらになって、消えてしまうのかもしれない。
でも。
「あのさ。」
「さっきから何だよ。お前。」
「うん。」
うたかた荘では一人じゃない。
寂しくなんかない。
だから。
「ああ、もう!ごちゃごちゃ考えるのやめた!!!」
「何だよ、いきなりキレんなよ!」
びっくりしたように笑うエージに、ツキタケも照れて笑った。
きっと、そんな難しいことじゃなくて。
「遊ぼーぜ!エージ!」
「ん?お、おう!」
結局、たどりつくのは、いつもの言葉。
必要なのは、たぶん、そんな特別なものなんかじゃなくて。
気がつくと、すぐそこにあるもの。
そこにある、ありふれた言葉でいい。
そのボロアパートの名は、うたかた荘。