今日はやけに加藤のフォークの切れがいい。
当てに行ったバットが空を切る。
「3ストライク、バッターアウト!」
陽気な声にエージが振り返ると、黒いコートの男が立っている。
「オッサンと交代。交代。」
「……へ?」
「お前、審判ね。」
勝手に話を進める男に、エージは苦笑した。
何でここにいるんだろう。この人は。
俺なんかのところに来ないで、ちゃんとあっちに会いに行くべきなんじゃないのか。
あいつが、きちんとあんたを乗り越えなきゃ、俺があいつを乗り越えても仕方がない。
俺はただあいつを乗り越えたい訳じゃない。
世界最強になりたいだけなんだ。
あいつを乗り越えることで、な。
「よし、来い!」
エージのバットを当たり前のように借り受けて、男が構える。
「へぇ。野球、やったことあんの?」
「バナナ食いながら、よくテレビで見てたぜ。」
「見てただけかよ。」
その割には様になっている。
ぼす!と音を立ててボールがミットに突き刺さる。
「当たった?」
「ファールだな。」
「何だよ。ファールかぁ!」
エージの判定に男は不満な様子も見せずに、再びバットを構えた。
「よし、もういっちょ、来い!」
あんたを乗り越えるんじゃ、意味がない。
俺の憧れは、あんたじゃない。
あいつは、勝手にあんたに憧れている。
だけど、俺にとっての最強は、あんたじゃない。
「おっと!」
「今のは空振りだな。」
「悔しいもんだなぁ。振り遅れって。」
とんとん、とホームベースの土を蹴るまねをして。
男がバットを突きつけるようにピッチャーに向けた。
「イチロー?」
「おう。まずは形からな!」
あんたなんか、とっととあいつにやっつけられちゃえばいい。
だけど。
「行った!!」
「え?今の、当たってた?もしかしてヒット?」
「今のは完全に行ってた!野球、マジで初めてなのか?」
だけど、分かってる。
あんたはあいつに会いに行かない。
「俺、野球の選手になろうかなぁ!」
「今からかよ!」
男が笑う。
黒いサングラスの下で、きっとひどく機嫌のいい目をしているに違いない。
だって、あいつはそうやって笑うから。
「あのさ。」
バッター交代。
もう一度、エージがバッターボックスに立つ。
今度こそ、加藤の球を打つ。
「何か、伝言とか、ねぇの?」
「んー?伝言ねぇ。」
男が主審の位置に立ってにやりと笑ったのを、視界の端に捉える。
加藤が振りかぶる。
今度こそ、打つ!
「よっし!」
今の球は真芯だった。
エージは振り返らない。
振り返っても、もう、あの男はいない。
分かっている。
伝言がないのが、何よりの伝言。
「次!もう一球!」
加藤が振りかぶる。
エージは真っ直ぐにバットを構えて、小さく笑った。