学校帰りの道。
途中まで友達と歩いて、いつもの曲がり角で手を振って別れる。
そこからうたかた荘までは、ほんの数分。
そんなタイミングで。
「やぁ。」
不自然なくらいに自然に、その男は姫乃に声を掛けた。
「あの……初めまして。」
困惑しながらも、礼儀正しく言葉を選ぶ姫乃の挨拶に、男が口を開けて笑う。
「確かに!初めまして。」
その男が誰かなんて、一目見ただけで分かった。
だけど、その名を呼んではいけない気がした。
「学校は楽しいか。」
黒いコートに黒いサングラスという黒ずくめの、しかも黒髪の男。
「楽しいですよ。」
「そりゃ、何よりだ。」
また、がははと声を立てて笑う。
もちろん、姫乃以外には彼の姿は見えない。
さっきすれ違った人には、姫乃が独り言を言っていると思われただろう。
「東京には慣れたか。」
「はい……だいぶ。」
この人なんだ、と思う。
この人が、あの人なんだ。
次の次の角を曲がればうたかた荘。
「あの。」
「うん?」
一緒に来ませんか。
と、言いかけて、言葉を飲み込んだ。
来ないと分かっている。
来るはずがない。
それに、私が一番言いたいのは、それじゃない。
「私の住んでるとこ……とてもいいところなんです。」
「うん?」
「だから、毎日、楽しくて。」
「そうか。」
サングラスの奥は見えないけど、その男が心から笑っているように姫乃には思えた。
「そんな場所を作ってくれた人に、私、ありがとうって言いたくて。」
男が黙る。
黙って笑っている。
次の角を曲がればうたかた荘。
「青春ってのは、いいぞ。」
男が唐突に言った。
「はい?」
「青春ってのはな。たとえて言えば、バナナみたいなもんだ。」
「はぁ。」
よく分からない。
「当たり前にあるもんってのは、ありがたいとは思わないだろ。」
「バナナみたいに、ですか。」
「そう。」
次の角を曲がれば、もう。
「ありがたいと思われてるうちは、まだ当たり前になれてねぇってことだよなぁ。」
そう言って、男はまた豪快に笑う。
「何てな。」
黒ずくめの男が突然立ち止まった。
「ありがとうはこっちの台詞だよ。お嬢ちゃん。」
「え?」
立ち止まった男を振り返った姫乃の視界には。
ただ、普通の住宅街の道だけが見えて。
人影なんて、もうどこにもなくて。
「……そんなの、ずるいですよ。明神さん。」
消えてなくなった誰かの影を追うように、姫乃は空を見上げて、静かに笑った。