共同リビングでは、姫乃が教科書をめくる音ばかりが聞こえていた。
勉強中、ということで、アズミさえもおとなしくしている。おとなしくしすぎて、眠ってしまったのはご愛嬌。ソファであぐらを組む明神の膝にすっぽりと収まって、アズミがすやすやと寝息を立てているほかは、静寂があるのみだった。
勉強するだけなら一人ででも構わないわけだが、うたかた荘の連中は当然のように姫乃がリビングで勉強するものだと思っている。理由というほどの理由ではないが、一応は理由がないわけではない。
一つには、姫乃が寂しくないように。
一つには、明神はじめ他のみんなが寂しくないように。
一つには。
「ガクリン。これ、何?」
姫乃が質問しやすいように。
もちろん、ガクが姫乃の部屋で教えるという選択肢もないではなかったのだが、明神が渋った。学力ゼロの自分では、姫乃の勉強には付き合えない。けれど、狭い部屋の中、ガクと二人きりにするのはいかがなものか。
そりゃ、ガクと姫乃の間に間違いなど起こるはずがないのだけれども。
「むしろ……できるものなら、思いっきり間違えたい。」
とはガクの言。その一言で、ガクが姫乃の部屋に行くことは却下された。
そんなわけで、姫乃の背後霊のように、ガクが勉強する姫乃をむちゃくちゃ温かいまなざしで見守りまくっている。
「それは窒素酸化物。」
「ちっそさんかぶつ?」
「Nが窒素。Oが酸素。」
「あ。そっか。」
窒素酸化物といえば、光化学スモックや酸性雨の原因となる物質であり、なんだか妙に評判が悪い。
「NOが付く言葉はろくなものがない。」
ぼそりと呟くガク。
「NOって『いいえ』ってこと?」
「それだけじゃない。NOBODY、NONE、NONSENSE、NO−ONE……存在を否定された言葉ばかり。」
存在を否定される痛み。
うたかた荘の住人は誰もが知っている。
あの小さなアズミでさえも。
姫乃は何と応じていいのか分からず、二三度瞬きをした。
そしておもむろに英語の辞書を取り出して勢いよく開く。
「きっといい意味の言葉もあるよ!」
順番にNOの付く単語を見てゆくと。
「あ。」
NOTE 注目
NOTICE 気づく
姫乃の指差す箇所に、ガクが「おや」と眉を上げた。
大丈夫。気づいているから。
私には見えるから。
背後のガクの気配がゆっくりと穏やかなものに変わってゆくのが、姫乃にも分かった。
「それにね、ガクリン!」
姫乃が満面の笑みを浮かべて、背後のガクを振り返る。
「NOはね!」
「はい。」
「HIMENOのNOだよ!」
「ヒメノンのNO!なんという甘美な響き……!」
拳を握り締め、感動に打ち震えるガク。
しばらくの間、そんなガクをにこにこと眺めていた姫乃は、ふと現実に立ち返り、慌てて教科書を開きなおした。
アズミが寝返りを打つ。
ソファの隅で明神があくびをかみ殺す気配がした。